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母親の死

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10日まえに母親が亡くなりました。約10年前に肝硬変と診断され5年前位より肝臓ガンになりカテーテル手術を数回致しましたが、1年前より肝臓ガンが大きくなり、年齢も考えると体力もなく手術もできなくなりました。食欲もなく体力もなくやせ細り、最後は苦しみながら旅立っていきました。亡くなる前に家に連れて帰りましたが、姉と一緒にみましたが以前よりの看病疲れや仕事の疲れも重なり、母が間なしに水をというのに対して、怒ってしまいました。今更ながら後悔していることがたくさんあり、毎日自責の念、後悔、悲しみ、虚しさ、これからの人生どうすればという気持ちがこみあげてきます。
日によって、時間によって悲しみの波が押し寄せてきます。
私はバツイチで子供もなく両親と同居してましたが、母親とはケンカすることも多く、亡くなる一年前は母と口を聞かないことがあり、また色々なことでものすごく親不孝してきました。母親は姉に亡くなったあとの私の行く末について心配していたそうです。私はかなりの情緒不安定なので、冷静になり物事を考えなさいとの事も言っていたそうです。母の遺言を受け、改めて生きていかなくてはと思ったり、もう生きていきたくないと虚しさがあったり。どうしていいのかわかりません。母親に対して、申し訳ない、後悔の気持ちでいっぱいです。
母親は許してはくれないでしょうね。苦しみから解放され天国へいってることを信じたいです。長くなりすみませんでした。とにかく後悔、何故母親を苦しめてしまったのかと、そして、母親が成仏してくれることを願いたいです。生きる気力をなくしました。私も母の元へ行きたい気持ちもあります。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お母さんは、今、仏様となってあなたを導いてくださっております

亀山純史と申します。
うみさんは、「母親に対して、申し訳ない、後悔の気持ちでいっぱいです。母親は許してはくれないでしょうね。」と言っていますが、どのような子であれ、実の子を許さない親はいないのではないでしょうか。(世間では、実の子を虐待死させてしまう親もいますが、そのような親は、本当の親ではないと思います。)何歳になっても、親から見れば自分の子どもは子どものままです。そして、中国の道綽禅師は、「前に生まれんものは 後を導き 後に生まれんひとは 前を訪(とぶら)え〔意味:先にこの世に生まれた者は、後に生まれた者を導き、そして、後に生まれた者は、先に生まれた者を頼っていきなさい。〕」と仰っております。今、お母さんはあの世に行かれてしまったわけですが、お母さんはあなたの行く末を心配なさっていた。その思いをしっかりと受け止めて、生きていってもらいたいと思います。亡きお母さんの思いは、私利私欲によるものではなく、どこまでもあなた一人に向けられたものだったのです。そして、そのような思いをしっかりと受け止めるとは、お母さんは、今、仏様となってあなたを導いてくださっていると、敬っていくことに他ならないと思っております。
この助言が少しでもお役に立てれば幸いです。

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有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

懺悔

あなた自身が仏道を求めて菩提を円かにすることです。
それが一番の供養です。
あなたもそれによって安らかになります。
まず、冷静に考えてみましょう。
お母さんに対する思いであなたは苦しんでいます。
お母さんが亡くなったことで悲しんでいるというより、お母さんに対して、こうしてあげたかった、悪いことした、不憫でならない、、、という自分の中の思いであなた自身があなた自身を一番責めて苦しんでおられるのではないでしょうか。
お母さんは、あなたにどうしなさいと言っていましたか?
それを本当に最優先で採用することです。
ご自分がしたいことが先にあると、お母さんの言われることが本当に素直に入ってこないし、その遺言の通りに実行しないのではないですか?
それこそ、親不孝という事になってしまうではないでしょうか。
本当にお母さんの願いを改めて、受け止めてみましょう。
人が人の話を本当に採用し実行するとういう事は、その言葉を聞いて沸き起こってくる自分の思いなど、優先させてはいけません。
本当に、お母さんの言うとおりになさってみてください。
お母さんと一年口を利かなかったという事は、お母さんは寂しい思いをされていたのではないでしょうか。
御霊前で、ちゃんとお話をなさる事で、希望的な生き方が見出されるはずです。
仏教では、懺悔(さんげ)という行があります。
懺悔文をお唱えして、心の底から懺悔することです。
〇懺悔文
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴
従身口意之所生 一切我今皆懺悔

読み方
がしゃく しょぞう しょあくごう
かいゆう むし とんじんち
じゅう しん く い し しょしょう
いっさい がこん かい さんげ

もしくは信仰されている宗派のものに 懺悔の際に唱えるものがあろうと思いますので
お母さまへのご供養 お勤めとして 49日までは 毎日三回 お唱え下さい。
あなたが自ら命を絶つことは お母さんを一番かなしませる行為です。
生ある中で報恩に通ずる行いをお勤めくださいませ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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