今日で
今日で一つ歳を重ねました。
幸せであるべき日が、こんなにも辛い日になるとは…
明日からの希望がもてません。
どんなに前を向こうとしても、心が暗闇に吸い込まれていく。
死んだら終わり。死んじゃだめだってわかってても、終わりにしたい気持ちがつよすぎて、どう弱い自分と向き合えばいいのかわからなくなってしまいました。
来年のこの日、今日の辛い気持ちを思い出すのかと、悪い方にばかり考えてしまう。だったら…。
こんな自分が嫌いです。
全てが嫌になりました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
今・ここ・の有り難さ
ご相談拝読しました。本日お誕生日なのですね。
「おめでとうございます。」
と一般的には誕生を祝う日でありましょうが仏教ではどうでしょうか。お釈迦様や宗派祖師のお誕生を降誕会として慶ぶ習慣はあっても自身の誕生を祝うという習慣はあまりないかもしれません。(もちろん浅学の私が把握してないだけかもしれませんが)
仏教的に言えば一切皆苦といわれる迷いのこの世界に生まれたのですから単純に両手をあげてよろこべるかというとそうにもいきません。
生まれたその時から死に向かっている私たちですが、年を重ねるということはそれだけ死に近づいているのだと実感する日でもあるでしょう。
喜ぶべきことは、「人と生まれて仏法という真実の教えを聞く機会をいただいた」ということになりましょうが、それも自分の意思でそうしたくて生まれてきたわけではありません。
となると何よりも、有ることが難しいことが現実として今有り得たという「有り難さ」に気づくべき日かもしれませんね。
そんな日に木蘭様はいかがなされたのでしょうか?どんな辛いことがあったのでしょうか?どんなお気持ちをお抱えなのでしょうか?
どうか自身の今が当然ではなく、有り難くして有り得ている現実に目覚め、そのお辛い気持ちにすら手を合わす眼をいただいてほしいと思います。
誕生日を機縁として仏法に出遇ってください。自己に出遇ってください。
頭に思い描く幸せではなくとも、今この現実を引き受け、また今日という日を迎えられたことを喜べる日がきっときます。
今日この場にこのように問いかけをしたということはすでにその日に向かい一歩を踏み出しているのです。
お誕生日おめでとうございます。生まれてくれて有難うございます。
追記
ご連絡ありがとうございます。失礼なんてことありません。
当時の出来事を乗り越えてこられた、あるいは乗り越えようとしておられるのですね。
どんな自分も自分です。おっしゃる通り、私の言葉を通して、何よりも「木蘭様自身」に出会ってください。今までのあなたもあなた。全ては「今・ここ」という有難い瞬間をもたらすご縁です。
応援しております。「これから」が「これまで」を変えていきます。過去も未来も「今」という時間の中を流れています。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
お礼のコメントがとてもおそくなってしまったこと、ご無礼を申し訳ありません。
他がどうであれ、自分の道を決め進むのは自分。良きも悪きも、今有ることへの有り難さを忘れなければ、その道は開けますよね?きっと…
自分の心の道を踏み外さなければ、仏様は光をさしてくれるかな…と、
あの辛いできごとは、吉武様のお言葉を頂戴し、新たな自分と出会えるためのことだったのだと今は思えるようになりました。
きっと大丈夫…!
ありがとうございます。