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檀家寺さんに仏教初心者が訪れるのは、ご迷惑になるでしょうか?

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最近、仏教に興味を持ちはじめ、
自分なりに様々な本を読んだり、知識を深め始めています。
そして、私の心の支えになっています。

仏教を学ぶにつれ、
「仏教徒になりたい」という思いや
「お寺さんと繋がりたい」という思いが湧いてきています。

私が現在住んでいるのは、
古くから住んでいる人が多い、いわゆる「田舎」の地域です。

私は、夫の仕事の都合でこの地域に引っ越してきたため、
地縁などもなく、つながりのあるお寺が全くありません。

お寺はありますが、檀家さんは皆、何代も前からのお付き合いのようだし、
「写経の会」などの対外的に開かれているイベントなども特別実施されていないようなので、
興味はあるものの、
「完全なよそ者が訪れても受け入れてもらえるだろうか」
と、不安になってしまい、敷居が高く感じられ、一歩踏み出せずにいます。

また、まだ特定の宗派を信仰する、
というところにまでは至っていないため、
そのような状態で、檀家寺さんを訪れるのも
もしかしたら迷惑になってしまうのかな・・・とも考えてしまいます。

昔からの檀家さんばかりのお寺に、
私のような、仏教初心者が訪れるというのは、
お坊さんの本音として、いかがなものでしょうか?

都市部に足を延ばせば、
私のように、仏教に興味を持ち始めた人でも
気軽に参加できるイベントなどが行われているお寺があるようなので
遠いけれど、そういうものに参加した方が良いのかな・・・とも感じます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お寺はお寺を愛する人のもの

昔からの先祖からの付き合いとはいえ、住職さんも一世一代。
何代も前の先祖さんと付き合いがある訳ではありません。
檀家さんも、それぞれ今の代の方とのお付き合いですから、一代一代のお付き合いです。
お寺は、心のお医者さんだと思って頂ければと思います。
病院だって患者さんに対して分け隔てなく、治療しますし、医療行為を施します。
お寺も、お寺側で敷居を高くしているお寺などありません。
どうぞ、敬遠されることなく縁を深めて頂きたいと思います。
山は山を愛する人のものである、と道元禅師はお示しです。
お寺も仏法も、それを愛し求める人の為にこそあるのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

まずはお電話をなさってみては?

私のお寺では初めての方を歓迎しています。
お寺の前をたまたま通りかかった方でもお越しになれるよう、ポスターや掲示板で出来る限り呼びかけています。
実際にお寺の法座にお参りなさる方の中には、檀家ではなく私の知らない方もおられます。
どこの誰かなど私は問わないので、「誰だったんだろ~」で終わることもあります。(ほんとはそれではダメなのかしれませんが…)

ただし、やはり檀家以外のお参りを嫌がるところも実際あります。
理由としては、お寺は檀家の寄付で建立され護寺されているのだから檀家以外は利用して欲しくない・・・と。
住職さんや檀家さんの中にこのような意見を持たれた方がおられます。
私個人としてはそのようなお寺があることは悲しいことだと思っていますが・・・。

やはり初めてお寺に参られる際には一度お電話なさることをオススメします。
「檀家でなくてもお参りできますか?」とストレートに聞いたらいいと思います。
電話越しの雰囲気でsaoriさんが行きたいと思えば行けばいいでしょうし、なんか違うと思えば他のお寺を考えたらいいです。

檀家制度は良い面ももちろんありますが、悪い面が目立ってきたのかもしれません。

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おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

質問者からのお礼

釈心誓さま

実際にお寺に電話をかけてみるという発想は
今まで私の中になく、
「その手があった!」と思いました。

確かに、実際に電話をかけてみて
その会話の中で、お寺さんや住職さんのお考えを聞くのは
縁を結ぶ一歩なのかもしれないと感じました。

今までは、自分の住んでる地域では
お寺と縁を結ぶのは難しいかもしれない・・・と思っていましたが、
電話をかけてみれば、もしかしたら自分を受け入れてくれるお寺との縁が
繋がる可能性があるかも知れないと前向きに考えることができました。

ありがとうございました。

丹下 覚元さま

檀家さんは先祖代々お寺と、家同士の付き合いがあるとはいえ、
住職さんと、檀家さんの当主の方とののお付き合いは一世一代、
という言葉は、目から鱗の思いでした。

そして、お寺は心のお医者さんであるというお言葉や、
道元さまの「山は山を愛する人のものである」というお言葉、
これらの言葉は
「やはり私は、お寺との縁を深めるために一歩踏み出して良いのだな」
と改めて思うことができました。
勇気を出して、一歩踏み出してみようと思います。

ありがとうございました。

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