hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

自分の性格

回答数回答 2
有り難し有り難し 7

会社の上司と性格が合わず毎日現場で怒られてばかりいます。
自分は怒られるとだまってしまうのがきにくわないらしく人格を否定されその性格もいますぐ直せと言われます。
毎日これが続くと思うと家に帰って子供と遊んでいてもその事ばかり考えて心から笑えません。最悪鬱になりそうです。
自分はまだこの会社にいたほうがいいのでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

怒られている対象は何か

亀山純史と申します。人にはそれぞれ、仕事に対する向き不向きがることは、私自身、生徒の就職指導に関わった経験から、よくわかります。しかし、そう考える前に、今回のご質問に対しては、次のように考えてみてはどうでしょうか。

ご質問では、「会社の上司と性格が合わず毎日現場で怒られてばかりいる」とのことですが、あなたの上司は、あなたの性格自体に対して怒っているのですか。今回のご質問では、あなたとあなたの上司との間で交わされているやり取りの内容がはっきりしておりませんので、憶測でしか言えませんが、あなたの上司は、あなたの性格自体に対してではなく、あなたの仕事内容に対して怒っているのではないでしょうか。(違っておりましたら、誠に申し訳ございません。)もちろん、仕事内容にあなたの性格は大いにかかわっているかもしれません。でも、仕事内容に問題があるならば、ここは、自分の性格を持ち出す前に、どのようにしたら、問題の仕事内容をよくすることが出来るかを考えるべきだと思います。仏教では物事をありのままに見ることを説きます。ありのままにとは、因果関係をはっきりとさせることです。あなたのある性格のために、仕事がうまくいっていないとしましょう。そこで、あなたの上司はあなたに対して怒る。その時、上司が怒っている対象は、あなたの性格ではなく、うまくいっていない仕事ではないでしょうか。もう一度、自分自身に問いかけてみてください。もしそうならば、どのようにしたら、うまく仕事ができるかを考えてみましょう。たとえば、仕事の段取りが悪かったら、「自分は不器用だから。」という考えではなく、どうしたら段取りよく仕事ができるのか、を考える。たとえば、「やるべきことを全て、とりあえず紙に書き出してみる。その次に、優先順位をつけてみる。」といった具合に。その時、「自分は不器用だから、そんなのは無理だ。」という考えしか出来ないとしたら、転職して別な仕事に就いたほうがいいのかもしれません。いずれにせよ、進路を決めるのはあなたご自身です。ご参考になさってみてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

本当に求められているもの

立場が上の方に意地を張って対立しても、得られるものは何もありません。
反発、反抗、黙ってしまう事は、円滑なコミュニケーションとは言えません。
まず、怒られたからといっても、そこで会話が終了したわけではありません。
ボクシングでいえば、相手がパンチを打ってきたという事です。
テニスでいえば、相手に強烈なサーブを打ってこられた、という事だけです。
上司は、部下の育成、指導の名の下に、言うべき事を言わなければいけないだけです。
「本当にただいう事を聞ける人」になってください。
ある70代の僧侶は立場がどんなに偉くなってもいつも素直に「はい」と大きな声で返事をなされます。
あなたよりも年も上ですが、誰に対してでも素直に「ハイ」と言います。
僧堂生活では、仮に相手が年下であっても、素直に話を聞くことが大切です。
大人は何らかの取引、かけひき、条件付けを要します。
それは衝突の元となります。
まず本当に人の話を黙って最後まで聞けるようになってみることです。
何を言われても、あなたの中から沸き起こる体裁を取り繕おうとすることを一切しないことです。
誤解のないように。
素直という事は、まず、話を私見や私的感情を交えずに相手が誰であっても、最後まで聞くことなのです。
あなたの主張や意見を交えずにまず、本当に素直になってみましょう。
決してイエスマンになれとか、ロボット、社畜になれという事ではありません。
本当にただ素直になるという事は、尊厳ある力なのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ