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長男への接し方と今後の私につきまして

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有り難し有り難し 3

現在私(54歳)には同居の妻(56歳)・未婚の長男(30歳)、別居で未婚の
次男(26歳)がおります。
私は子供のころ父親が感情の起伏の激しい人で毎日、父親の目の色を気にしてはびくびくしながら過ごしていました。
今思うと、とても理不尽でまさに鬼畜の父親でした。
4歳離れた弟がおりますが弟にはほとんどそんなことはありませんでした。
子供のときの記憶は全てに色がございません。
空しさ、悲しさ、情けなさ、恐怖、世の中に対するこれから先の不安・うまく表現できないような感じでした。社会に出てからは人間不信・対人恐怖により人間関係がうまく構築できずただ、ただ苦しい思い出しかございません。
一度は会社に入りましたが30代で躁うつ病になり、現在に至っております。

最も父親を許せないことは自分の将来につきまして、自分なりの努力を積み重ねやっと進学が叶うという時に、一方的に定時制高校に入れられたこと
です。私の夢であった高校から大学そして自分が失敗しても成功しても納得する人生を送りたい・・・そんな夢のすべてを壊された感じでした。
父親の暴力による絶対性で、そのときは何の反抗もできず、そんな自分へ
の情けなさにも嫌気が差しました。
そんなことがあり、自分の子供だけは絶対に大学に入れてやる、という歪曲した執着心が生きがいになりました。

また、長男が誕生したときには愛情をまったく感じられず、憎しみすら感じたのです。そんな自分がまた嫌になりました。
いまもこの感情は変わらず自分でもなぜなのかわかりません。
30年近くたった今でも、無性に長男に強い怒りを感じます。
私は長男に対して、まだ小さい頃に確かに厳しくあたっていました。
いま、考えますと長男に対してまさに鬼畜の父親と同じようなことをしていたのです。今ではそんな私をほとんど恐怖の対象なのか、私に対してほとんど接触したがりません。
なぜかわかりませんが、そんな長男と自分の弟が不思議と頭の中で重なる
のです。次男の誕生のときには素直にかわいいと思い普通に愛情がわきました。できれば私は過去を切り離し、ここから自分の足で世の中を堂々と歩いてみたいのです。
引きこもりのような現在の私自身はこれから何処を目指していけばいいので
しょうか。また長男とは今後どのように対処していけばいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

父親を慈悲で憐れみ 子供に慈悲で詫びて愛すべきかと

あなたのお父さんも人間的に未熟であったのだ、きっとその前のお父さんやお母さんからや戦後の厳しい環境の中でひどい目に合わせれてきたのだと思って見ましょう。憐れみの心を持って、不憫な父親を許せずとも、憐れみを持って執着の心を緩めればよいのです。
それをちゃんと誠実に行えば、あなたは父親の呪縛から解き放たれ、幸せの道を歩むはずです。お父さんは厳しい人であったのでしょう。あなたは散々な目にあわされてきた。ですが、お子さんは別存在です。
私がひどい目にあったからと言って、こいつも同じように合わせてやろう、というのは料簡が狭いというもの。
顔が似てたり、その嫌いな相手を感じさせる様子があると、なおさら嫌悪感が生まれてくるのでしょうが、あなたが接しているお子さんはあくまで、父親とそっくりであっても、父親とは生命体的にも人格的にも、別存在の個別の人格者です。天地にただ一人の存在であることをもう一度思い起こして、懺悔の気持ちをもって、接してあげて、許しを乞い、愛情を注いであげてください。
お父さんにされたように負の連鎖でお子さんにも同じ接し方をしてしまう。
でも、それって、可愛そうなことだったなぁと思いませんか。
子供は母親の愛情を受けるために生まれてきたのに、もらえるはずだったものが愛情とは真逆なものであった。
あなたがいくつになろうが、詫びるべきは詫びるべきです。
人間の関係は生きている限りいくらでも修復できるものです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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