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諸行無常 因果応報

回答数回答 1
有り難し有り難し 6

よろしくお願いします。
当方40代前半。結婚18年、離婚調停中。別居中で間も無く離婚成立予定です。
交際相手ほぼ同年代。離婚歴あり、高校生息子あり。二人は同じ職場。

当方の離婚成立が見えてきた中交際スタート。当方の身辺整理つきしだい再婚の約束を交わしています。

最近彼女が職場同僚にアプローチを受けている事実を知り、彼女もまんざらでもない様子。この点は彼女は認めていません。
現段階では男女の仲では無い様子ですが、
同僚以上、かなり親しい仲です。
気掛かりです。彼女とは会えば将来の話しや愛を語れていますし、彼女の息子とも
上手くやれています。私の焦り、独占欲により発した言葉により、先日彼女より
少し距離を置きたい旨伝えられ、
了承しました。

心変わりによりこのまま終わる縁なのか、
我が身に起因する因果応報による罰なのか。自分がより良い今後を歩むためどうすべきか
悩んでおります。

彼女との思い出、今後の夢等楽しく恨み憎しみの気持ちはありません。魅力的な彼女に惹かれた同僚に対しても憎しみ等はありません(彼も既婚ですが)離れたくない気持ちと別れを受け入れ積極的孤独と生きるか気持ち半々です。自分で道は選びますが、彼女と共に歩めなくても幸せであって欲しいとねがっております。仏道においてヒントを頂ければ幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

エゴセントリック少年ボウイ

こんにちは、質問者様の凝り固まった心を溶かすために、ジョークを交えた回答がウリのたんたん丹下です。波乱バンジョーですね。
賢い方ならば、タイトルのこの一言で理解されることでしょう。
ご自身が歩んでこられた、生き方もエキセントリックですが、
今回のテーマはエゴです。
ものごとを、自分の都合のよい様に、運ばせたいという気持ちがあなたの人生の全てを破壊してきたということにそろそろ真剣み幹合わなければいけないなあ、オレ。という時期です。
そこが反省されて、もう少し、エゴの濃度が薄まり、イイ人になって、彼よりイイ人になれば、彼女もあなたに気を向けてくれるやもしれません。
エゴセントリック egosentoric という言葉が内包していることの中に、
「ものごとを自分のものにさせようとする傾向・そういう心の動きが良く起こる」ということを、自分で感じ取ってみてください。私も、その心の排除こそ、修行時代に一番苦労しました。
エゴセントリックな気持ちは、人間誰にでもあるのです。
その心があるからこそ、大人子供さんは、子供大人なのです。
大人で子供の純粋さを持っている事は悪いことではありませんが、エゴ、自己中心的な心を持った子供や大人は、称賛されるべきものではありません。
永遠の孤独を歩まれるのであれば、彼女も彼も、しばらくはエゴセントリックの道を歩まれるでしょう。
そこから、解脱することがあれば、あなたは永遠の孤独であるようではあっても、素晴らしい人間性向上の道を独歩されることになるでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。エゴセントリック・・おっしゃる通りです。自ら破壊してしまったこれまで人生を反省し、これから歩むべき道を冷静に思考したいのですが煩悩まみれで自我を見失いそうです。自らのエゴセントリックな心がよく頭をもたげる瞬間が解るようにはなりつつはありますが・・
年齢ばかり重ね、中身が伴なっていない今が苦しいです。
ありがとうございました。

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