回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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生命をいただいて生きる人生観を持ってようやく大人になる
植物も生きているからお供えすべきでないなら、果物をお供えするのも間違いという話になります。あるいはご飯も。甘味もお香も植物由来です。それらはどうなのでしょうか?
文脈は違いますが、この手の殺生感について戒律主義のスマナサーラ師ですら「あまり原理主義的に考えると、身動きがとれなくなるのです。(中略)「完全に戒律を守って、完全な善なる生活ができる」と思うところがそもそも間違い、勘違いなのです。」と書いておられます(『サンガジャパン』vol.15,p.17)。
こういった話になると果物や食べ物は実だけを使っているが、花は根元から切るので一緒にすべきでないという意見が出ます。品種にもよりますが、大抵の花や木は剪定をした方が元気になるものです。時期を見て根元から切ってしまった方が翌年の花や実の付きが良くなるものも沢山あります。植物の習性は根本的に哺乳類とは違います。その違いを理解しない批判は幼稚であり、擬人化は生命倫理の分野でも問題視されています。
ちょっと話が逸れましたが食べ物にしろ花にしろ、無駄にするかどうかは自分自身です。花は一万年前からお墓にお供えされています。
http://science.newsln.jp/articles/2013071015070030.html
変な理屈を抜きにして素直に見たとき、綺麗な花を見る…ただそれだけで人の心は元気になるのですよ。それが一万年以上も昔から普遍的で当たり前の感覚です。その元気をまずは自分が喜び、そして誰かにシェアしたいと願えるか?お供えの本質はそこです。あなたは記念日に造花を贈られて嬉しいですか?それで喜べるなら好きにすればいいです。でも、それを他人に押し付けたら嫌われる自覚を持ちましょう。
仏教は修業して魂の次元を上に持っていく宗教ではありません。仏教では、本来ありのままの心には苦がないのに、余計な理屈をこね回したり、好き嫌いを持ち出すから苦が生まれると考えます。その余計なものを取り除くことが修行です。
改めてお仏壇の花を見てみましょう。そこで感じたことがそのままあなたの心です。お仏壇自体は仏像も含め、あなたの心を写し出す鏡のようなものです。お仏壇を見て微笑むことができたら、仏様も一緒に喜んでいらっしゃいます。仏様はそれを望んでいます。
「一茎草を拈じて法王刹を建て、一微塵に入りて大法輪を転ぜよ」(典座教訓)
仏さまは自分への布施として有り難く受ける、と思います
レインボーマンさんなら、既にご存知かもしれませんが、仏様へのお供えするもののことを五供と言います。具体的には、香・花・灯燭・浄水・飲食を指します。花も五供の一つです。
我々が仏さまや御先祖様にできる「布施」でもあります。確かにご質問のとおり、或る面から見れば、花の命を奪う行為であるという見方も可能でしょう。でも、一方で、仏前や霊前を美しく荘厳することで立派な役割を果たしているとも言えます。
すべての生き物も、我々人間も、食物連鎖の中でそれぞれ生きています。食物連鎖を「弱肉強食だ。」「残酷だ。」と否定的に捉えることも決して間違ってはいませんが、「食物連鎖の中で生かされている。」「おいしくいただきました。御馳走様でした。」と感謝しながら生きている人もたくさんいると思います。
仏さまは、美しく咲く花に感謝し、花を供えてくれた行為に感謝すると思います。
人と共にある
こんにちは。レインボーマン様
供える 人と共にある。
お花は心の表れです。
お花をお供えするという事は
仏さまに
そして愚かな自分の心を綺麗にするためです。
頭で考えだすと、
この世の中無駄なことだらけに思えます。
心も使うとその無駄が愚かさが何とも言えない人間味となるのではないでしょうか?
生きていくという事は愚かなことです。
だから心を使って少しでも豊かに生きていく努力をするのです。
「いただきます」の原理と同じです。
私たち、娑婆に生きる者たちは皆、命を分かち合っています。自分がここに存在しているだけで、どこかの誰かの命を頂いているのです。
たとえ、生花を造花に変えようとも、その事実から目を背けることは、できません。
造花の原料は何でしょうか?お供え物となった後に、造花はどこへ行くのでしょうか?その過程で、何者の命も傷つけていない、と確信が持てるでしょうか?
答えは、否。明確です。
造花をお供えすることがいけない、というわけでもありませんし、花自体をお供えするな、というわけでもありません。
花という存在には、人智を超えた美しさと役割があります。そこに、人間の理屈が介入することは不可能です。だからこそ、「供物」として相応しい存在なのです。人間の解釈で、その根本的な価値が変わることは決してあり得ません。
一輪の花の命をお供えした自分には、その命の分だけ精進する責任と覚悟がある。その美しさの分だけ、この世界を仏に相応しいものにしていく。花を供えるとは、そういうことだと思います。
命を受け継いだ立場の者として、自分は今ここでどう生きるか?仏さまが我々に問うていらっしゃるのは、ただその一点のみです。
合掌
質問者からのお礼
萩原徳雲先生、ご回答感謝いたします。
が、花は植物の生殖器だと私は理解しています。植物が我々の言葉を話せたら、きっとこう言うんじゃないでしょうか?「迷惑なんだよ!お前らは自己満足してイイ気分なんだろうが、こっちは子孫を増やせなくなっちまったじゃねーか!」と。
だから、私は造花をお供えするようにしています。
吉田俊英先生、大慈先生、妙香先生、ご回答有難うございます。
う~ん。やっぱり”私は”花をちょん切って仏さまにお供えする気にはなれません。ですから我が家の仏壇はこれからも造花でいきます。
なんか久々に怒られた感じですが、少し図に乗り過ぎましたか?
以前の三つとは違い、今回の質問は純粋に疑問に思っていたんですが、押しつけがましく感じられたなら、お詫びいたします。 申し訳ありません。
私の不満と疑問も、もう出尽くしたようなので、hasunohaへの質問は、今回をもって最後とさせていただきます。
最後にもう一度、私の質問にご回答下さった僧侶の皆さまに、度重なる無礼のお詫びと感謝の意を表します。
ごめんなさい。そして、有難うございました。