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口が悪い家族

回答数回答 1
有り難し有り難し 27

家族が口が悪く、人をけなす事ばかり言うのでとてもイライラします。
とても短気ですぐ大声で怒鳴り、けなしてくるので自分もつられてイライラしてヒステリックになってしまい、最終的には大ゲンカになります。家にいる時は近くにいたくありませんが、家が狭く逃げ場がなくて、自分で部屋を借りて暮らしたいと思っていますが金銭的な事などですぐにというわけにはいきません。
なるべく心を穏やかに保ちたいと思っていますが、自分の事をけなされるとカッとなってイライラします。
どのように対処したらよいかアドバイスをいただきたく思います。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

言ってるだけよ♡ オホホホ(笑)

イイ修行材料にしましょう。
※以下、読者のみな様が、今後、乱暴な言葉に免疫をつけて頂く為の方便であることをご理解頂いたうえ服用頂きますよう。
普段アナタは家族がバリゾーゴンビームを放っている時に、それを真っ向から浴びてるから毒されるのです。
仏教って、それを浴びても、ヘッチャラでいること。
どうしてヘッチャラかって、罵詈雑言でも自分を苦しめる悪いこととして拾い上げないからです。
自分のこととして私的な判断や取扱い、自我の介入を機能させなければ解決です。
意味を添えない。私的解釈を加えない。善悪ジャッジをしない。正義心で相手にケンカを売らない。
拾い上げたり、自分のフィールドに取り込んでワタクシナイズドしてしまいるはずです。
あなたはの心の中の審査員的の批判的コメントこそが、実は、実は、実は、あなたを一番苦しめているのです。家族の悪口にはさほど罪はありません。知ってた?(^<^)今度実験してみてね。
私も昔似たような事がありましてねぇ。
取り上げたり、問題にしたり、自分の価値観、マイ評価をそこに持ち込んで押し付ける(自我押しする)から問題になるのです。
単にスルーしなせぇ、という事ではありません。
それが、ただ、それであって、そこに、あなたが、ツッコミを入れたり、詮索しなければ、そのことは、ただのそれとして、音がそこに流れているだけ。
今度、悪口バズーカが始まったら、そこに私的エネルギーを注がないでお過ごしください。
「悪言は是れ功徳なりと観ずれば、此れ即ち吾が善智識となる」 by証道歌
言葉にイチイチ傷つけられたら人生おしまい。言葉によって傷つけられない心(周波数)で過ごすのがコツです。
どんな乱暴なぞんざいな言葉にも、しょーもない言葉にも、そこに自分を持ち込まなければ、ただの音。
どんな凄惨な画像でも、私的感情を持ち込まなければ、脳は毒されない。
最後に、修行です。
バカ、アホ、マヌケ、スットコどっこい、口から出まかせ、舌先三寸の、嘘八百のインチキ回答丹下なんぞ地獄に落ちやがれっ、え?って、オーレー?☆家族だからこそ本音トークが飛び交うのでしょう。
「また、悪口か、この愛すべきバカ共めが(笑)」と、酸いも甘いも苦いも泥も、受け入れる度量を持たんかい、このあんぽんたんめが(笑)。←あ、アナタの為にワザとですからね。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様

ご回答ありがとうございます。
今日また悪口がはじまったのですが、ご回答を読んだ後だったので少しだけやり過ごす事が出来ました。
でもやっぱり言い返してしまいましたが。。。また書いてくださったご回答を読んで心を落ち着かせました。
言葉によって傷つかない心でいるってなかなか難しいですね。
言葉ですぐ傷ついてしまいます。
強くなりたいなぁ、って思います。
弱くなりそうになったらまた、いただいたご回答を読んで、周波数を高めていきたいです。

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