猫を殺した過去で、後ろめたく生きるのが怖いです
当時、家の借金やお金のことでシビアになっていて、
自分も無職でお金が惜しく買おうと思いながらキャットフードを買わず先延ばしにしていました。
ご飯は祖母があげているのだからカリカリが無くてもいいだろうという感覚でした。
その時期に、親猫が2匹子どもを産み、その内の一匹は特に体が小さい気がして、一応ミルクやスポイトを買いに行ったのですが、母猫がいるし明日、様子を見てからでもいいかと、買わずに帰りました。
そして次の日、死んだことを知りました。
そうなって始めて、お米とかだけでは親が食べも栄養も悪くて未熟児にしてしまったのではないかと思い、自分のした罪の重さに気づきました。
それだけではなく、
自分の判断ミスで猫カゼを蔓延させて、病院に連れて行くのが遅く、衰弱させてしまい、生きようとしてくれたのに、結果2匹とも助かりませんでした。
私は動物を大事にできない非道な人種なので、もう金輪際、動物は飼わないと決めています。
あの時、あのような判断さえしなければ、こんな暗い人生にならなかったのだと思うと、あと時を思い出し狂いそうになります。
身勝手ですが生きていくのが怖いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
親鸞の視点
親鸞は主著のはじめに、われわれが仏教に出会う縁として「王舎城の悲劇」をとりあげています。
主著の冒頭ですから、非常に重視しているということです。
これは、ある王子(阿闍世)が、提婆達多という人にそそのかされて、父である王(頻婆娑羅王)を殺し、母である王妃(韋提希)を殺そうとしたという悲劇です。
阿闍世はその重い罪に、釈尊の光明によって気がつかされます。
韋提希も最初は、「自分はなにも悪くないのに」と言っていたのが、阿闍世が、なぜ、父を殺し、母を殺そうとしたのかの根本の原因、自己の罪悪に目覚めていきます。
これも釈尊の身業説法によって目覚めさせられるのです。
自らが、極重の悪人であることを、「仏から知らされて知り、懴悔する」
このことが、仏道の出発点だと、親鸞はとらえています。
あなたは、猫に十分な世話をしてあげられなかったことを、自らの罪ととらえていらっしゃるのですね。
その慚愧の心は、あなたを真実に導く縁として必ず働くと思います。
現に、このサイトにあなたは来ています。
すでに仏教に出会っているわけですから。
必ずや報われます
拝読させて頂きました。あなたのその罪のお気持ちを反省そして仏様へ懺悔の気持ちとして真心込めてそのコ達に謝ってくださいね。
そしてそのコ達が仏様のお導きをしっかりと正しく受けて仏様のもとに生まれ変わり心安らかにご成仏なさってくださいます様に誠心誠意心より仏様にお願いなさってください。私もそのコ達が仏様のもと極楽往生なさって頂きます様に仏様へお念仏お唱えさせて頂きます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
必ずやそのコ達は仏様のところに生まれ変わりそしてご成仏なさいます。
あなたはその真心込めて懺悔し願うことにてこれからの人生を正しく生きてくださいね。仏様もあなたのご先祖様もそのコ達もあなたをこれからもお見守りなさってくださいます。
これからのあなたの人生が清く正しく、そして素晴らしい出会いに恵まれて幸多い充実した毎日であります様に心よりお祈り申し上げます。
これからの人生を正しく歩んできくださいね。必ずや報われて参ります。
質問者からのお礼
自分がどうなってしまうのか、わからなくなります。
ただただ、無性に生きて行くことが怖くなります。
佐藤精徹様
ありがとうございました。
kousyo Kuuyo Azuma様
ありがとうございました。