生きるべきか自然に任せるべきか(=自殺)
見つけて下さり、ありがとうございます。
以前ご質問させていただきました。
http://hasunoha.jp/questions/11530
再度ご質問させて下さい。
なるべく…でも良いのです。
人間と関わらずに生きる術はないのでしょうか?
現実的ではないことは重々承知しております。
ですが私は、この人間世界で生き続けるのが難しく、それ故数回、自殺企図をしています。無意識にて行ったものもあります。
それは押さえたくても押さえられず、その行動は止められず、きっといつかは成功するんだろうな…と感じています。
悪夢からPTSDを発症し、診断名を伝えられるまでは、自身がまさかこんな病気…○○○○だと気付きもしなかった。
それまでの様に、普通に生きていたかった。
私の根底に、酷い感情が刻まれていると知ったとき、正直ホッとしたものです。
何故なら、それまでに『私はおかしいのだろうか?』『どうしてこうも人と違った考えをするのだろう?』と思っていたことが、全てあきらかになったからです。
普通に生きることが難しいからのご質問だと考えていただけましたら、有り難く存じます。
もしどうしても無理だと言うなら…この人間世界で、私はどうすれば良いのでしょうか?
私・・何か悪いことでもしたのでしょうか…。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
初めまして、浄土真宗の藤波と申します。
ひどく苦悩されてる様子、お気持ち察するに余りあります。
私のことを書かせて頂きます。
私の心の中にも、自分がこの世からいなくなれば、どんなに楽だろう………という感情が常に心の闇として存在しています。でも、なんとか生き長らえております。
仰る通り、他者と関わらずに生きることがどんなに楽だろうか………、そうした思いが、この世にいたくない願望を助長するものです。釈尊が説かれる如く、私がこの世で肉体を持てるが故に、あらゆる苦悩が生ずる訳ですから。
でも、貴女の文章を読ませて貰って、1つほっとしたことがあります。貴女はご自身の心の病を受け入れられていることです。
私も心療内科へ通う前、受診することへの抵抗がありました。しかし、受診することで、逆に自身の病を受け入れることができ、何かホッとした感覚があったのです。
だから生き長らえている訳ですが、生きることもまた、自然に任せることなのかも知れません。生きるのが辛くて仕方ないの、よくよく解ります。少なくとも、私も世の中で貴女のそうした事情を知る1人となりました。そのことだけは理解して下さると嬉しく思います。
私も貴女も生きてるからこそ、こうして質問に耳を傾けることができたんだと、私は考えています。貴女が求める回答かどうか解りませんが、更に1つ付け加えさせて頂くなら、自身が死んでしまった時、必ず死を悲しむ存在もある筈ではないでしょうか………。
南無阿弥陀仏
拝読させて頂きました。あなたの心の内を読ませて頂きました。
この世の中は五濁悪世です。人の貪りや怒りや愚かさや浅ましさに溢れて正しい教えもないがしろにされております。その様な中で正しく生きていくことは並大抵ではありません。
あなたがおっしゃる通り人の汚れや愚かさから離れていくことは本来なら望ましい道なのかもしれません。
人を離れていられるその様な清い聖域があるかと言われればなかなか難しいのも現実ですね。
私はお寺の住職ですからあえて言うならばやはりそれはお寺だと考えています。お寺の本堂は仏様の浄土をこの世に表したものです。本堂は中心に仏様がいらっしゃり多くの菩薩様がいらっしゃいます。そして私達をお見守りなさってくださっていらっしゃいます。仏様の浄土は一切の苦しみのないところです。貪りや怒りや愚かさや恨み憎しみのない世界です。仏様は全ての人々を苦しみから解放し清らかにして頂きます。そして私達に真の智慧をお与えなさってご成仏させてくださいます。その仏様の有難き功徳や有様をこの世に表したのが本堂です。
あなたはすでにここで様々なご縁に恵まれていらっしゃいます。私達もあなたとのご縁を大切に感じております。
どうかお寺にお参りなさって頂き、有難き仏教の教えに巡り会い正しくお導きを受けて頂きたく切に願います。
そして正しい教えにもとずき心を清めて生きて頂きます様にと心より願います。
あなたがこの世の汚れから離れて生き抜かれ、生命を全うされた時には必ずや仏様があなたを間違いなくお導きなさってくださいます。どうかご安心なさってくださいね。
私はあなたがこの世を清らかに生きて後仏様の浄土に速やかにお導きをお受けなさいます様にと心より仏様に願います。南無阿弥陀仏
共にこの世を清く生きて共に仏様の浄土に参りましょう。
拝読させて頂きました。あなたにはぜひとも本堂にいらっしゃいます仏様にお向き合いなさって頂きたいと思います。その像が木造であろと例えはうちのお寺の仏様も750年の長きに渡りあまたの人々をお見守りなさってくださっておられます。人々の悲しみ苦しみ喜び等をお見守りなさっておられます。あなたにも素直にお向き合い頂き仏様に心から聴きて頂きたいと思います。私達人間は愚かで儚い者です。心安らかにゆっくりとお向き合いなさってくださってね。
あなたをお見守りさせて頂きます。
人と関わらずに生きても良い。
ひかり様
こんにちは。拝見いたしました。「人と関わらずに生きる術はないのでしょうか」というご質問でしたね。
今の世ならばネットもありますから人と出来るだけ関わらずに生きられるのではないでしょうか?人と関わらずに生きたいのならば私はそれで良いと思います。無理して人と付き合うことが人生ではないと思いますよ。何も人と関わることだけが善ではありません。人はどのように生きても良いと思います。
勝手な深読みをしてしまいますと、人と関わらずに生きる術が具体的な収入方法としての事なのかそれとも、本当は信頼できる人と生き、自分を受けとめて欲しいのだけど、人と関わらずに生きたいと思ってしまった原因や現状をどうにかしたいというお気持ちなのかどちらなのだろうと感じました。
例えば、今、全ての問題が解決したとしたら、「本当はどう生きたいのか?」「本当はどうしてほしかったのだろうか?」と自分の本心に聞いてみることです。頭の中の「思い」の中で生きると思考が固定化されて「思い」=自分が考えていることだと錯覚し始めます。
もし、あなたの中「こうして欲しかった」と聞いて頭の中に浮かんでくる人がいるならば、人形でもいい、なんでも良いのでそれを目の前において本当に言いたかったことを言うことです。暴言でもかまいません。思いの丈をぶつけてみることです。それだけでも変わると思います。
「こう生きなければならない」「こうするべきだ」「普通はこうである」という価値観に縛られていませんか?自分の思いに縛られていると、人と関わる関わらないどちらにせよ気持ちが休まることがなかなか上手くいかないのかなとも思いました。
苦しみはやがて終わります。光はちゃんとやってきますよ。
合掌
質問者からのお礼
藤波 蓮凰 様
ご回答ありがとうございます。
プロフ読ませていただきました。病気の原因の1つである母が、大昔に夜逃げしたとき、西本願寺さんに下宿させていただいた…という話をしていたのを思い出しました。
また、ご自身の体験談を書いて下さり、ありがとうございます。お辛い経験をされていらしたのですね。
私も病を受け入れるまで時間が掛りました。それ以上に、原因を受け入れることが困難で、未だに母親のことは「愛情だった」と思い込もうとしています。私の病のことは伝えていませんから、私の苦しみも消えません。
ご縁を大切に思わなければいけないのかも知れません。普通なら、自然に大切に思うものなのかも知れません。こういった感情が、私にはわかりません。
死は私の希望でありますが、苦しみから解放される瞬間だということが再確認できました。
嫌味で書いているのではありません。藤波様ならお分りいただけることと思います。
人間と接すること自体が大きなストレスとなり、時に私を解離させ、時に私の記憶を無くし、時に私の声を奪いとりetc…。
では、どうやってそれを回避できるのか?その様な場所は、存在しないのか?やはり自然に任せて自死するのを待つのか?
せっかくご回答いただいたのに、未だ答えがわかりません。
もう暫く、自然の流れに身を任せ、そのときがきたなら運命だと考えようと思います。
ありがとうございました。
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kousyo Kuuyo Azuma 様
ご回答ありがとうございます。
私は発症前までは、前世や輪廻転生、神様や仏様、ご先祖様というものを信じ、ご先祖様を大事にしなさいという躾を守ってきました。ところが、発症してからそれら全てが信じられなくなり、今現在も、その様なものはないという思いが強いです。
もしもあるのなら、悪いことをした覚えのない幼少時に、何故私があんな目に遭わされたのか?、ご先祖様が見守って下さっているのなら、何故身内が…という考えが強くなったからです。
この様な私がお寺に行き、本堂に入ることが許されるとは考えられません。
もし本当に、そこに
>人を離れていられるその様な清い聖域
があるならば、それは私にとって朗報です。ですが、そこへお伺いして、こんな考えの私が、いったい何をすれば良いのでしょうか?そこが未だ、私の中で解決していません。
疑っている訳ではありません。ただただ、全てが信じられなくなったということです。
失礼なことを書きました。ですが、心正直に書かせていただきました。申し訳ありません。
仏様に願って下さり、ありがとうございました。
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お忙しい中、お2人のお坊様にお答えいただいたことに、感謝申し上げます。
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けんじゅ 様
いただいたご回答に1度お返事すると終わりなのかな?…と思いつつ、少し残念な気持ちでいました。
時間が経ってのご回答、とても嬉しく感じました。
ありがとうございます。
ただ1つ、訂正させていただけるならば、人という個ではなく、人間というくくりです。宜しくお願い致します。
自身の深いところでの考えではなく、ただ思っていることをご質問させていただきました。
けんじゅ様のアドバイスを拝見し、自身の心を感じてみました。
収入に対しての悩みではなく、誰かと生きたいという思いもない様です。
>現状をどうにかしたいという・・
…これが1番近い気がします。
『病気になっていなければ』という感情が、大きくある様です。
言葉で何度も発していたけれど、心深くにあるとは気付きませんでした。
誰かに対して「こうして欲しかった」という感じもありません。親兄弟に対しての怨み等もありません。
「怨めれば楽」と、主治医も仰ったことがありますが、根底にあるのは『人間全体に向けて』なのだそうです。それ故、治療が難しいそうです(治らないとは言われていません。主治医のお力で、良くなっていると思います)。
「こうあるべき」というのは、あるかも知れません。
真面目過ぎるとか、人に気を使い過ぎると言われます。
ただ、それは、「人が気付かないことを気付き過ぎる」のだと、主治医から教わりました。
そこが、
>気持ちが休まることがなかなか上手くいかない
…のかも知れません。
『病気になっていなければ』という感情の元には、発症する前の私が写し出されている気がします。
他者から見た私は、明朗快活で、いつも周りを明るく楽しくさせ、「ひかりに相談すると元気になれる」と言われ、頼りになる存在…だった様です。
発症してから、『これまでの自分は偽物だった』と考える様になりました。“私の中の誰か”が生きてきたからです。
では、今、私は何を求めているのか?…と感じてみました。
孤独を好む私が、“本当に欲しているもの”を感じることが出来ませんでした。
けんじゅ様ともう少しお話させていただいて、深めてみたいのですが、宜しいでしょうか?(スルーしていただいてもかまいません)。
今回いただいたご回答のお陰で、少し…何かに気付き始めたかも知れません。
ありがとうございましたm(__)m
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【一向寺】kousyo Kuuyo Azuma 様
今までの質問とご回答を読み返していましたら、Azuma様の後半のご回答を拝読していないことに気付きました。申し訳ありません。
大変遅くなりましたが、お礼を書かせていただきます。
Azuma様のお寺様の仏様は750年という長い時間を、見守っていらしたのですね。戦争や災害などの中でも、見守り続けていらしたのですね。
私には、その、見守りと言うのがよく分かりません。やはり、以前の私とは違う様です。
ですが今年は、何処かのお寺様へお伺いしてみようと考えています。
そこで何をどうすれば良いのかは分かりません。ただ、ボーッと座っているだけかも知れません。そこの空気を感じてみたいと思います。
ありがとうございました。