自殺者を否定することについて回答受付中
私は、自殺者が嫌いです。憎いです。心が弱いから自殺したのだ、自殺しても地獄に行って苦しむだけだ、という具合に。
そして同時に、私はこの考え方が不適切であることも知っています。この考え方は、明らかにその人たちの背景や状況を考慮していないし、観測もできないあの世のことについて、浅い見識で断定しているからです。
しかし、それじゃあ自殺者たちが無条件に救われると考えてしまえば、きっと私は首を吊るでしょう。
おそらく、これらの考え方はどちらも極端なものだと考えられます。
なにか、バランスの良い考え方などはありませんでしょうか?
単位制の高校3年生、両親と妹と暮らしています。不登校の期間があり、高校は留年して四年目です。幼少期から誤解されたり、上手く行かないことが多くありました。中学三年生で発達障害と診断されています。今はバイトをしていますが、話を聞いていないとか、責任感をもってやってほしいなどと言われてしまいます。今年度は高校の単位をとり、卒業後の進路を決める必要があるのですが、自分がどうしたら良いのかわかりません。哲学や心理学に興味があるのですが、何をして生きていけば良いのか、本当にわかりません。漠然とした相談で申し訳ありませんが、アドバイス頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。
有能に、せめて平凡になりたい
お坊さんからの回答 4件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
誰も傷つかない世界へ そのためにあなたも誰も傷つかない思考を
人間というものは「正しい」という思考が好きなもんで、そのためにその正しさに縛られてしまう。
その正しいという考えは危険なのです。
なぜか。
それは「自分にとって」という考え方だからですぢゃ。
隣の国などをご覧なせぇ。
トップが過激な人になればその人にとってのアブナイ過激な正しさを他人に押し付ける。
自殺どころか他殺もいとわなくなる。
非道なビジネスのために人の命が軽んじられることが起こる。
あなたがその被害にあう立場だったら冗談じゃないと思うでしょう。
だから国から逃げ出す人もたくさんおるわけなのです。
自殺も他殺も同じです。
人が傷つく。
本人だけじゃなくまわりも傷つく。
正しいと思っているようでも人が幸せになれない。
だからこそ、その「自分にとって」の考えというものが本当に「正しいのか」を問う必要がありましょう。
とあるアーティストの歌詞にこのようにあります。
「自殺なんてないのさ 誰が君を殺した?」
誰が自殺したくて生まれてきた人がいるでしょうか。
そんなひどい目に合わせた人が裁かれずに誰が親として、遺族としても自ら死を選んでしまったわが子や親族を責められるものでしょうか。
正義の剣で人を斬るなという教えがあります。
どんなに立派な正しい考えであってもその正しい刀で人を斬れば人が傷つく、血が出る。
あなたが自殺した人はいけないと悪く言ってもすでに其れを選択してしまった人、およびご遺族さんにとっては、どうしようもありません。
ならばこそ、みんなが救われる考えを求めるべきではないでしょうか。
そうすると結果的にやさしさや、導き、救い、光のある方へと進むようになるのです。それが仏道、仏の道、人間世界の真実、真理を探究する道なのです。
僧は貴方も救わなければいけません。自殺した人も救わなければいけません。ご遺族も救わなければいけません。自死・安楽死を望む人も救わなければいけません。そんなことはできんと思うことはしばしばあっても、それでもその道を行くのです。菩提心をおこすということは一切衆生をわたさん、救わんという誓願だからです。その大誓願をあなたが持てばその自分の矛盾する考えや、誰かが傷つく考えも救ってあげないと、という風になるのです。
よって、このご質問の回答とは、あなたが自分も自殺した人もご遺族も救われる考えを見い出す、その答えを出すということになりましょう。合掌
脳みそのぎっくり腰
自殺者の9割は「うつ」等を患っていると言われます。
脳・神経の体調不良が原因で希死念慮という症状が出るのです。
風邪の症状で咳や鼻水が出るのと同じ。
心の病は目に見えないので、身体的な故障に置き換えて考えてみましょう。
ぎっくり腰の人は、健康な人と同じような荷物は持てません。歩くことすらままならない場合もあります。
脳みそのぎっくり腰は、健康な人なら普通に受け入れられることが受け入れられなかったり、健康な人ならポジティブに考えられることがポジティブに考えられなかったりします。
そして希死念慮が出てくる。
自殺者の多くは、脳みそのぎっくり腰のせいで生きる力が弱くなっただけだと思ってはどうでしょうか。
嫌いだと言いたくなるほど、あなたも生きづらさを抱えているのね
あなたも、もがいているのですね。
懸命に生きているからこそ。
自死のニュースや情報に、心揺さぶられるのですよね。嫌いと思ったり、憎いと思ったり、弱さだと思ったり… そして自分を奮い立たせて、死ぬもんかと踏ん張って生きているのではありませんか。
一言では表せないのですよね。みんな違って、複雑なのです。割合でもなく、断定できるものでもない。
私はね、希死念慮を抱えた人をサポートしながら、自死遺族のケアもしています。当事者にも、その関係者にも、相当な苦悩があります。簡単に解決出来ることなら、どれだけいいか。それが容易ではなく、生きたいのに、生きることができない。それがどれほどのことか。
そばで見てきたからこそ、一言では表せないし、決めつけないでと思ってしまうのです。
嫌いだと言いたくなるほどに、あなたも生きづらさを抱えているのですよね。
ずっと、もがいてきたのですよね。しんどかったね。苦しいよね。
あなたを想うサポーターがいます。一緒に生きようと、味方になってくれる人や安心できる場所だってきっとあります。
ひとりで答えを出さなくてもいいように、あなたの居場所を見つけてほしいわ。
私がいる和歌山県でも、居場所の会があります。繋がる支援があります。あなたの住まいにも、きっとあるのですよ。繋がっていきましょう。安心できる命を生きてほしいわ。
中道です
拝読させて頂きました。
あなたのお考えを読ませて頂きました。あなたがおっしゃる通りあなたのお考えも一理あると思います。
同時にとても極端だと思います。ものごとはとても複雑に絡み合っていて様々なつながりやタイミングによって常に変化し続けているのです。
あなたが命を頂いて生きていことも本当に様々な巡り合わせやタイミングや恵まれた中でのことです。
そして私達は様々な巡り合わせの中で生きているのですし、必ず亡くなる時がきます。
それは病いもあるかもしれませんし、事故や災害で亡くなることもあるでしょうし、身体の限界つまり老衰で亡くなることもあるでしょうし、自ら命を絶つこともあるかもしれません。
私達には想像もできないあまたの巡り合わせやタイミングでそうなるのです。ですからどの様に亡くなっていくかについて私達は一概に善い悪いとは言い切れません、判断はできないと思います。
また普段は当たり前のように生きていますけれども私達一人一人はとても弱くはかない存在です。仏様や神様から見れば私達一人一人は本当に未熟で小さくささやかな存在なのです。
ですから些細なことであっても私達は迷ってしまったり悩んだり、苦しんでしまったり自分を追い込んでしまったり、生きることがもう辛くなってしまって死を選ばざるを得なくなってしまうことにもなりうるのです。
そんな小さな愚かな私達を仏様や神様は優しくお導きなさって下さいます、お救いになさって下さいます。
仏教の考え方として「中道」(ちゅうどう)というものがあります。つまり中の道です。どちらか片一方ではなくて適度にバランスよくものごとを見たり、考えたりものごとに向き合って行っていくことです。どちらか極端ではバラつきがありムダがあり、あやまちが多いのです。
生か死か、生きるか死ぬかどちらか、ではなく生もあり死もある中で私達は日々移り変わりながら存在しているのですからね。
どうかじっくりとあなた自身のことや生き方や周りの方々とのご縁やこれからの未来にお向き合いなさって下さい。あなたのこれからの未来を健やかにご成長なさっていきます様に、あなたが救われていきます様に、切に仏様や神様やあなたのご先祖様に祈っています。至心合掌