今まで罪を犯した私に、生き方を教えてください。
最近、座禅のやり方を教えてもらい、一人でも家でやるとよいと言われ自宅でもやるようにしています。その時、無になるというか思考を止めるという事が出来ず、日頃の行いなどを思い返していました。
園児の頃も学生時代の時だって、気に食わないと駄々をこねたり、友達と喧嘩をしたら殴ってしまったり、うるさいだの気持ち悪いという自己中心的な考えで虫を殺した事だってありました。思い返すと沢山の罪を犯し、また、人に迷惑をかけている事に気付きました。母親の話によれば、私がまだお腹の中に居た頃、足元が見えずに転びそうになった事があるとも言われました。私は胎児の頃から人に迷惑をかけていたようです。
それに気付いた後、「陰徳を積む」という言葉を教えてもらいました。なのでもう昔の様に罪を犯す事はやめ、陰徳を積もうと思ったのですが、疑問が浮かびました。
罪を償えた気になっているだけではないのか、よい事をした気になっている、思いあがっているのではないのかという事です。
私が犯した罪は消えないと思うと自分に対して嫌悪感を抱きます。愚かな私に生き方を教えてください。様々な僧侶さんのご叱咤、お待ちしております。宜しくお願いします。
ありすぎてどれを書いたらいいのかわからない。
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罪業(ざいごう)減らし功徳(くどく)増やそう
仏教的な罪・悪とは、悩み苦しみを増やす方向性を言います。
悩み苦しみの原因は煩悩です。
したがって、罪とは、煩悩を育てる行いです。
たとえば、殺せば殺すほどに、心には殺し癖がつく。盗めば盗むほど、嘘つけばつくほど…。
このように、悪いことをしたら悪い癖がたまること、またその悪い癖のことを、罪業と言います。
逆に、殺さなければ殺さないほど、殺さない癖がつく。慈しめば慈しむほど、許せば許すほど…。
このように、善いことをしたら善い癖がたまること、またその善い癖のことを、功徳と言います。
悪いカルマが罪業、善いカルマが功徳と言いかえてもいいですね。
過去の事実は消せませんが、過去に染み着いた悪い癖を、善い癖に矯正することはできます。
罪業を減らし功徳を増やすために、仏教が役立ちます。
その罪を出してみましょう
坐禅は無になるのではありません。具体的な教えも無く、無だ、無だ、と教える禅はウソ800だと思ってください。そういう指導者のものとで坐禅を学んでも無だ無だ無駄無駄ァー。
坐禅とは、この心身の上に縁に触れて全自動でどんどん出てくるおおやけの思いに手を付けずに、放っておくと、私的な思いの取扱いが外れるのです。おそらくその区別もなくただ思いが出てきちゃいけないと大ているでしょう。思いが出ている状態でありながら私的な思いに支配されたり影響されない状態が坐禅です。あなたは無になろうと思いの取り扱いを私的にしている。当然無になれるわけがありません。ちゃんとした指導者の下で坐禅をしなければ考えごとで終わります。
禅宗中国の二祖の慧可大師の元に、僧璨というものが訪ねてきました。
「私は罪深い人間であり、その罪故にらい病にかかってしまった。和尚の力で罪を無くして頂きたく懺悔をお願いしたい」
「では、その罪を消してあげるから、ここに出してみなさい」
「・・?」
僧璨は素直に自分の中に、本当に罪があるのかよくよく自分の心をみつめました。
そして、その罪と言うのは自らが作り出した、思いによる幻であることが分かりました。
「罪は形が無いのでどこにもみあたりません」
かくして僧璨は、はじめて考えの作り出した世界から、実相の世界という事実・現実の真実の世界に、眼が開いたのです。
僧璨はそこで即座に、ものの真実のありように眼が開いたのです。今までは自分の独自の思い方を中心としたものの見方しかしてこなかった。質問者様とまさに同じです。
およそ人間世界に苦しみがあるとすれば、それは自分の考えを中心としたものの見方です。
その考えが沸いて来ても、私的な取扱いをせずに過ごしてみてください。罪も晴れ、自分の思いから縛られないようになりますよ。
我は煩悩具足の凡夫なり
亀山純史と申します。私の宗派である浄土真宗の考え方で、少し述べさせてください。
まず、仏教における私たちの在り方として、①「私たちには悟りの可能性である仏性(如来蔵)がある」という見方と、②「私たちは善い行いをしようとしても、真に善い行いをすることなど出来ない煩悩具足の凡夫である」という見方、があります。私の宗派である浄土真宗は、私たちを②の煩悩具足の凡夫であるととらえておりますが、それは決して、善い行いをしなくてもよい、というわけではありません。「善い行いをしようとしても出来ないことに気づくこと」それが重要なのです。「小さな親切、大きなお世話」という言葉があります。人のために良かれと思ってやったことが、実は大きなお世話であったということですが、私がここで問題にしたいのは、自分が取った行動が、他人の大きなお世話になることがあることではなくて、大きなお世話になった時に、私たちは「そんなつもりでやったわけではなかった。」とか「こっちの気持ちも汲みとってもらいたいものだ。」と、自己弁護や相手への攻撃をしがちではないか、ということです。あるいは、「何か相手のためを思ってやったことに対して、何も相手は言ってこない」なんていう場合、ほとんどの人は、「お礼を言わないなんて、なんて非常識な人だ。」と思うのではないでしょうか。つまり、私たちはどんなに良い行いをしようと心掛けても、自己中心的な存在であるのです。そして、そのような私たちに、仏様(阿弥陀如来)は無量の智恵と慈悲 ―「あなたは、どこまでもそのままの状態でいいのだ、私はあなたを決して見捨てず、必ずあなたを救う」という働き― を振り向けてくださっているのです。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、質問者のせいやさんの「罪を償えた気になっているだけではないのか、よい事をした気になっている、思いあがっているのではないのか」というお気持ちは、自分自身の内面を深く洞察しておられる結果であると思います。そして、「私が犯した罪は消えないと思うと自分に対して嫌悪感を抱きます」というお気持ちも併せて、まさに、「我は煩悩具足の凡夫なり」という自覚が出来ているということではないでしょうか。そうだとすれば、「あなたは、どこまでもそのままの状態でいいのだ、私は必ずあなたを救う」と言ってくださる仏様を拝んでいく生き方はどうでしょうか。
質問者からのお礼
願誉浄史様。回答ありがとうございます。仏教を通じて生き方を変えようと思います。ありがとうございました。
亀山純史様。回答ありがとうございます。実家が浄土真宗の檀家だった事もあって“「我は煩悩具足の凡夫なり」という自覚が出来ている”と書いてくださった部分には感動しました。これから浄土真宗について学んでいきたいと思います。
丹下 覚元様。無になると表現した事については語弊がありました。失礼しました。座禅の最中に湧き出る思考に囚われるな、という事をその様に書いた事については反省します。私の解釈が間違えていたようです。すみませんでした。
さて、“およそ人間世界に苦しみがあるとすれば、それは自分の考えを中心としたものの見方です。
その考えが沸いて来ても、私的な取扱いをせずに過ごしてみてください。罪も晴れ、自分の思いから縛られないようになりますよ。”の部分に感動しました。今まで十何年も思考に縛られていた私が、簡単にそれから解き放たれるとは思えませんが、自分の思考に縛られないように努めていきたいと思います。ありがとうございました。