お寺を巡る資格があるでしょうか。
アルツハイマー型認知症を永年患った母を在宅介護の末、今年の3月に亡くしました。
77歳の誕生日の3日後でした。
その母の供養にと、父と愛犬とわたしの男3人で地元のお寺巡りを始めました。
お大師様や観音様にすがりたく遍路、巡礼路に沿ってもう150寺近くを巡りました。
お寺を巡っている間は気も晴れ、癒されるのですが、帰宅と同時に果たして母は喜んでくれただろうかと、自責の念にとらわれます。
時に強い虚脱感や絶望感にも襲われます。
周りの皆さんはあなたはお母様によく尽くして差し上げた、お母様はお幸せだったと言って下さいますが、認知症を患い始めたばかりの頃の母をとても煩わしく思い、本人が一番心細かったであろう10年程前に、母の気持ちに寄り添ってあげられなかったことを今でも強く悔やんでおります。
晩年のつきっきりの介護はその罪ほろぼしのようなものです。
自身が独身のため、ゆくゆくは、お墓も作らず、納骨もせず、母の故郷である島の海岸に散骨をと考えています。
父も自分もそれでよいと言ってくれています。
自分自身も甥や姪はいるものの、彼らに負担をかけさせたくなく、また、お墓の石の下や、暗い納骨堂の中よりは、海のほうがのびのびできていいかなあ、お金もかからないし、などと考えております。
母の供養のため、一日三回、新しく購入した仏壇の前で父と般若心境を唱える毎日です。
写経も日に二度ほど書き、お寺巡りの折に納めさせて頂いております。
しかし、母の人生を思うと、特に病魔に蝕まれたのちの辛かったであろう最後の十年を思うと、お経を唱えていても涙がとめどなく溢れます。
不甲斐ない息子でごめんねと心で詫びてばかりです。
また写経の途中で筆を止め、やはりこんなことで母が果たしてよろこんでくれているだろうか、母の病気の進行をもっと緩やかにしてあげられる手立てがあったのではないか、果ては晩年お世話になりながらもその冷たい対応に腹立たしく思えたこともあったデーサービスや病院に今更ながらに腹を立てたりと、全くもって邪念だらけです。
百枚近く写経を致しましたが、ほんの一枚も最後まで穏やかな気持ちで書けたことは今だかつてありません。
このようなわたしが、果たして、これからもお寺を巡らせて頂く資格があるでしょうか。
亡き母は喜んでいてくれるでしょうか。
何卒よろしくご回答の程、お願い申し上げます。
最愛の母の突然の死後よりこちら悲しみや虚しさに時に果てしない絶望を抱き苦しんでいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
亡き人から思われている
ご相談拝読しました。
最愛のお母様のご命終謹んでお悔やみ申し上げます。ご供養の気持ち、過去への懺悔の思いはいかばかりかと心中お察し申し上げます。
さて、お寺参りには資格など必要ありません。悩む方、苦しむ方、供養を望む方どなたにでもお参りしていただきたいです。
しかし今、あなたはお気づきになってしまったのではないでしょうか?
寺院巡礼や祈祷、写経など、果たしてこれを続けて供養になるのだろうか。これで母が浮かばれるのだろうか?
母のためと寺参りをしているが、いったい自分は本当は何のためにお参りしているのだろうか?自分の後悔への罪滅ぼしになってはいないだろうか?と。
今、あなたは問われているのです。それはお母様に見守られていると表現することもできるでしょう。
つまり、亡き人を思うあなたが亡き人から実は思われているということです。
お母様は一生懸命生き、その尊い人生を終えていかれたことでしょう。晩年の闘病生活のみがお母様の人生ではありません。たくさんの喜び、感動、悲しみ…色んなことがあったでしょう。
それを知る周りの皆様は「お母様はお幸せだった」とおっしゃっているのではないでしょうか?
そしてどんな人生を歩んだにしろ、お母様は迷いのない仏様の世界に旅立っていかれたのです。
そしてもう私は迷っていないよ、幸せだったよ、あなたに迷ってほしくない、責めてほしくないよと、願いをかけてくださっているのです。
お寺に参る、供養するとは何か?
そういう仏様としてのお母様に出会っていかなければなりません。迷い苦しんでいるのはどちらか気づかなければなりません。
残った私たちの心はどこまでいっても邪念は消えないでしょう。清浄にはならないでしょう。
それを迷いのない世界から見守ってくださる、はたらきかけてくださるのが大切な亡き方です。その方は今仏様としてあなたに願いをかけているのです。
その願いに気づきましょう。お母様は喜んでいるかな?と心配し迷わせる必要はないのです。気持ちが穏やかにならないことも責める必要はありません。
ただ、お母様の願いに耳をかたむけ、その人生に学び、このいのちをどう生きていくかを尋ねるのです。迷っている自分の姿を照らしていただくのです。
それが供養となるのかもしれません。
ゆっくりと仏様としてのお母様に出会い直しをしていきましょう。
少しずつあなたの心は清浄となります
拝読させて頂きました。あなたの自責の念を読ませて頂きました。
あなたの自責の念、懺悔のお気持ちは全て仏様や菩薩様や大師様にありのままに届きます。
そして仏様はあなたをいつでも迎え入れてくださっておられます。ですからお寺にお参りなさることを仏様は喜んでくださっておられます。同時にあなたがお参りなさる姿をお母様は殊の外喜んでくださっておられることでしょう。
お参りしながら或は写経しながらもご自分の今までの所業を振り返ると自責の念や残念な悔しい思いや後悔の念があなたの頭を回りますよね。それをそのまま仏様への念としてしかとお届なさってくださいね。そのことで少しずつあなたの心は清浄となります。少しずつ少しずつ清らかに澄んだ心へと近づいて参ります。
どうかこれからもお母様をご供養なさりながらあなたのその念を仏様にお届けください。
あなたが穏やかな心となり身も心も清まり、日々のご生活を仏様やあなたのご先祖様にお向き合い頂きます様にお祈り申し上げます。
質問者からのお礼
一向寺kousyo Kuuyo Azuma 様
早速のご回答ありがとうございました。
今のありのままの気持ちをこれからも仏様にお伝えしてまいります。
周りの皆さんがこれだけは「日薬よ」とおっしゃって下さいます。
でも時間と共に悲しみや虚しさが薄れてゆくのも、それはそれで寂しいものだなあとも感じています。なかなか勝手なものですね。
母の笑顔、母が喜んでくれている姿を思い描き、母を常に身近に感じつつ、これからも父、愛犬と母の供養のために、そしてわたし自身の気持ちの平安のために、お寺巡りを続けさせて頂きます。
誠にありがとうございました。
季節の変わり目、kousyo Kuuyo Azuma様におかれましても何卒ご自愛下さいませ。
失礼致します。
法覚寺 吉武文法様
早速のご回答ありがとうございました。
お寺に出向き、母の供養をすることが、すなわち仏となった母と出会うことなのだとのお教えに深く感じ入りました。
母には「春月豊照信女」という素晴らしい戒名を頂戴致しました。
この先迷い苦しむわたしの道を、母はお月さまのように優しく照らしてくれることでしょう。
母の願い、それはきっとわたしの幸せだと思います。
母を安心させるためにも幸せになりたいと思います。
そしていつの日か、母に再会できた時に、母と笑って「あれから」の話ができるよう頑張ります。
これからもありがたくお寺巡りを続けさせて頂きます。
誠にありがとうございました。
北海道はもう幾分冷たい気候だと存じます。
季節の変わり目、吉武文法様におかれましても何卒ご自愛下さいませ。
失礼致します。