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お寺を巡る資格があるでしょうか。

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有り難し有り難し 44

アルツハイマー型認知症を永年患った母を在宅介護の末、今年の3月に亡くしました。
77歳の誕生日の3日後でした。
その母の供養にと、父と愛犬とわたしの男3人で地元のお寺巡りを始めました。
お大師様や観音様にすがりたく遍路、巡礼路に沿ってもう150寺近くを巡りました。

お寺を巡っている間は気も晴れ、癒されるのですが、帰宅と同時に果たして母は喜んでくれただろうかと、自責の念にとらわれます。
時に強い虚脱感や絶望感にも襲われます。
周りの皆さんはあなたはお母様によく尽くして差し上げた、お母様はお幸せだったと言って下さいますが、認知症を患い始めたばかりの頃の母をとても煩わしく思い、本人が一番心細かったであろう10年程前に、母の気持ちに寄り添ってあげられなかったことを今でも強く悔やんでおります。
晩年のつきっきりの介護はその罪ほろぼしのようなものです。

自身が独身のため、ゆくゆくは、お墓も作らず、納骨もせず、母の故郷である島の海岸に散骨をと考えています。
父も自分もそれでよいと言ってくれています。
自分自身も甥や姪はいるものの、彼らに負担をかけさせたくなく、また、お墓の石の下や、暗い納骨堂の中よりは、海のほうがのびのびできていいかなあ、お金もかからないし、などと考えております。

母の供養のため、一日三回、新しく購入した仏壇の前で父と般若心境を唱える毎日です。
写経も日に二度ほど書き、お寺巡りの折に納めさせて頂いております。

しかし、母の人生を思うと、特に病魔に蝕まれたのちの辛かったであろう最後の十年を思うと、お経を唱えていても涙がとめどなく溢れます。
不甲斐ない息子でごめんねと心で詫びてばかりです。
また写経の途中で筆を止め、やはりこんなことで母が果たしてよろこんでくれているだろうか、母の病気の進行をもっと緩やかにしてあげられる手立てがあったのではないか、果ては晩年お世話になりながらもその冷たい対応に腹立たしく思えたこともあったデーサービスや病院に今更ながらに腹を立てたりと、全くもって邪念だらけです。
百枚近く写経を致しましたが、ほんの一枚も最後まで穏やかな気持ちで書けたことは今だかつてありません。

このようなわたしが、果たして、これからもお寺を巡らせて頂く資格があるでしょうか。
亡き母は喜んでいてくれるでしょうか。

何卒よろしくご回答の程、お願い申し上げます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

亡き人から思われている

ご相談拝読しました。
最愛のお母様のご命終謹んでお悔やみ申し上げます。ご供養の気持ち、過去への懺悔の思いはいかばかりかと心中お察し申し上げます。

さて、お寺参りには資格など必要ありません。悩む方、苦しむ方、供養を望む方どなたにでもお参りしていただきたいです。
しかし今、あなたはお気づきになってしまったのではないでしょうか?

寺院巡礼や祈祷、写経など、果たしてこれを続けて供養になるのだろうか。これで母が浮かばれるのだろうか?
母のためと寺参りをしているが、いったい自分は本当は何のためにお参りしているのだろうか?自分の後悔への罪滅ぼしになってはいないだろうか?と。

今、あなたは問われているのです。それはお母様に見守られていると表現することもできるでしょう。
つまり、亡き人を思うあなたが亡き人から実は思われているということです。

お母様は一生懸命生き、その尊い人生を終えていかれたことでしょう。晩年の闘病生活のみがお母様の人生ではありません。たくさんの喜び、感動、悲しみ…色んなことがあったでしょう。
それを知る周りの皆様は「お母様はお幸せだった」とおっしゃっているのではないでしょうか?
そしてどんな人生を歩んだにしろ、お母様は迷いのない仏様の世界に旅立っていかれたのです。
そしてもう私は迷っていないよ、幸せだったよ、あなたに迷ってほしくない、責めてほしくないよと、願いをかけてくださっているのです。

お寺に参る、供養するとは何か?

そういう仏様としてのお母様に出会っていかなければなりません。迷い苦しんでいるのはどちらか気づかなければなりません。
残った私たちの心はどこまでいっても邪念は消えないでしょう。清浄にはならないでしょう。

それを迷いのない世界から見守ってくださる、はたらきかけてくださるのが大切な亡き方です。その方は今仏様としてあなたに願いをかけているのです。

その願いに気づきましょう。お母様は喜んでいるかな?と心配し迷わせる必要はないのです。気持ちが穏やかにならないことも責める必要はありません。

ただ、お母様の願いに耳をかたむけ、その人生に学び、このいのちをどう生きていくかを尋ねるのです。迷っている自分の姿を照らしていただくのです。
それが供養となるのかもしれません。
ゆっくりと仏様としてのお母様に出会い直しをしていきましょう。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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少しずつあなたの心は清浄となります

拝読させて頂きました。あなたの自責の念を読ませて頂きました。
あなたの自責の念、懺悔のお気持ちは全て仏様や菩薩様や大師様にありのままに届きます。
そして仏様はあなたをいつでも迎え入れてくださっておられます。ですからお寺にお参りなさることを仏様は喜んでくださっておられます。同時にあなたがお参りなさる姿をお母様は殊の外喜んでくださっておられることでしょう。
お参りしながら或は写経しながらもご自分の今までの所業を振り返ると自責の念や残念な悔しい思いや後悔の念があなたの頭を回りますよね。それをそのまま仏様への念としてしかとお届なさってくださいね。そのことで少しずつあなたの心は清浄となります。少しずつ少しずつ清らかに澄んだ心へと近づいて参ります。
どうかこれからもお母様をご供養なさりながらあなたのその念を仏様にお届けください。
あなたが穏やかな心となり身も心も清まり、日々のご生活を仏様やあなたのご先祖様にお向き合い頂きます様にお祈り申し上げます。

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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

一向寺kousyo Kuuyo Azuma 様

早速のご回答ありがとうございました。

今のありのままの気持ちをこれからも仏様にお伝えしてまいります。
周りの皆さんがこれだけは「日薬よ」とおっしゃって下さいます。
でも時間と共に悲しみや虚しさが薄れてゆくのも、それはそれで寂しいものだなあとも感じています。なかなか勝手なものですね。
母の笑顔、母が喜んでくれている姿を思い描き、母を常に身近に感じつつ、これからも父、愛犬と母の供養のために、そしてわたし自身の気持ちの平安のために、お寺巡りを続けさせて頂きます。
誠にありがとうございました。
季節の変わり目、kousyo Kuuyo Azuma様におかれましても何卒ご自愛下さいませ。
失礼致します。

法覚寺 吉武文法様

早速のご回答ありがとうございました。

お寺に出向き、母の供養をすることが、すなわち仏となった母と出会うことなのだとのお教えに深く感じ入りました。
母には「春月豊照信女」という素晴らしい戒名を頂戴致しました。
この先迷い苦しむわたしの道を、母はお月さまのように優しく照らしてくれることでしょう。
母の願い、それはきっとわたしの幸せだと思います。
母を安心させるためにも幸せになりたいと思います。
そしていつの日か、母に再会できた時に、母と笑って「あれから」の話ができるよう頑張ります。
これからもありがたくお寺巡りを続けさせて頂きます。
誠にありがとうございました。
北海道はもう幾分冷たい気候だと存じます。
季節の変わり目、吉武文法様におかれましても何卒ご自愛下さいませ。
失礼致します。

「お寺全般」問答一覧

お寺でおじさんからナンパ

先日、厄除け祈願のためお寺へ行きました。そこは初めて行く場所でとても楽しみにしておりました。 お護摩まで時間があった為、境内を散策していると、親ほどの年齢の男性に、写真を撮って欲しいと言われたので、写真を撮りスマホを返すと、地元の人ですか?と聞かれたので違います。と答えるような軽い会話をしました。するとその男性はよかったらお食事でもと誘ってきました。断ると足早に去っていき、それ以上は何もなかったのですが、20〜30は歳の離れた男性からお寺という場所でそのような目で見られたことがすごくショックで不快な気持ちになり、とても嫌な思いをしました。 思い返してみれば、写真を撮って欲しいにも関わらず、すぐにスマホが出てこなかった事と、私がお賽銭をいれる直前に声をかけてきたところからそもそもナンパ目的な点とお参りを邪魔された点にとても腹が立ってきました。 その後、無事にお護摩を終え護摩札を受け取りましたが、モヤモヤが消えません。 境内でそのような事(ナンパ)をする方をお寺の方々はどう思っているのか気になり、また嫌な思いをしたお寺は自分には合わないのかと思い相談させていただきました。

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有り難し有り難し 17
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田舎にあるお寺の娘です。 現在、父が住職をしていますが、現在跡継ぎ問題に直面しています。 うちは三姉妹で、両親は、いままでも私たち姉妹に寺を継ぐよう強く言ったことはなく、今回、両親が高齢になってきていることもあり、このタイミングでと思い、私から今後のお寺について相談?した際にも、「わたしたちが幸せになるのが一番だから」と、寺を閉じることも視野に入れて考えているようです。ですが、やはり話をしていると祖父母や代々寺を守ってきたご先祖様に申し訳ない、悲しいという気持ちも汲み取れます。お寺を閉じるという選択は、私にとっても心苦しいものでもあります。ですが、自分自身が出家して尼僧になり、後を継ぐという覚悟も決まっているわけではありません。。 ちなみに次女は結婚して家を出ており、長女は何度かお見合いもしましたがいままでは良いご縁がありませんでした。わたしは現在、一般の方と5年ほどお付き合いしており結婚も視野に入れていますが、私以外に望みがなく、私がお寺の後継者の方とご縁があれば、お別れすることも考えています。 現在の選択肢としては、 1.姉妹の誰かがうちのお寺を継いでくれるどなたかと結婚する 2.姉妹の誰かが出家し継ぐ 3.お寺を終う 上記のいずれかなのかと思います。 跡継ぎ紹介システムなど、検索してみましたが、よくわからず。。 また、父が言うにはうちのお寺は過疎地域にあり、経済的にもここを継ぎたいという人を見つけるのは難しいだろうと。。 確かにお寺だけでは収入は十分ではなく両親は他の仕事もしています。しかしお寺自体は歴史もあり、このまま閉じてしまうのは悲しいです。今後お寺を続けていくにしても、なにかお寺自体も盛り上げていく新しいやり方が必要なのかなと思います。 似たような境遇の方のお話や、跡継ぎ問題、過疎地域にあるお寺の存続問題など関してなにかアドバイスのある方がいらっしゃれば、お答えいただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 5
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はじめまして、よろしくお願いします。 ある別院さんの納骨堂でお世話になっています。 今回、使用者名義の母が病気になりいろいろな事が難しくなったので、使用承継のお願いをしました。 書類と説明をしていただいたのですが、その際“所属寺の証明欄に必ずご記入いただく様お願いします”と言われました。 私は幼い頃からこちらの別院さんしかお参りしていないので、他にはない事や今は県外に住んでいる事を伝えると“決まりですので、どこか探してもらえませんか”と言われるばかりでした。 母が手続きをした時はどうしたのかと書類を確認していただいた所、“お母様も同じ様に言われたようで、その時特別に承諾したようですね。ですが今回は決まりですのでお願いします。こちらのお寺の名前を出してもらえばわかってらっしゃるので大体のお寺で記入してもらえるので。”と言われました。 今住んでいる県のお寺さんで探してみたのですが、夫の転勤が多く、居住地が定まらないのでご記入いただけませんでした。 書類と説明をしていただいたお寺さんの“うちのお寺の名前を…”の言葉を信じて、そのお寺さんもある県でも問い合わせしたのですが、“何日か行事に通っていただかないと記入する事は難しいですね”と言われてしました。 私がお願いにうかがうお寺さん選びが悪いのでしょうか。本当に困り果てています。 どうすれば書類に記入していただけるのでしょうか。 どうかお教えいただけませんでしょうか。 よろしくお願いします。

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檀家でない者が法要をお願いするのは

実家は真宗大谷派、私自身は現在実家から新幹線の距離の街に住んでおります。 父の死後、母と兄の私や家族に対する態度の豹変、虚言による中傷の為実家とは絶縁しています。 今年の夏、亡父の七回忌ですが、今住んでいる街で自分達だけの法要をしたいと思っております。ここ1年ほど近所の日蓮宗のお寺で写経会や行事に参加しており、事情を話しましたらご住職より快諾頂きました。 地方も宗派も違うので法要のお布施の額も全く分からず、街の仏具店で尋ねましたら、そもそも檀家でもないのに法要を行うのはその寺の檀家さんからすると義務を果たさず美味しいとこ取りともいえる、かなり図々しいことなのでお布施はこの程度はするべき、と実家の菩提寺の法要のお布施の2.5倍ほどの額を提示されました。そこまでは厳しいので多少躊躇しています。 お寺の写経会は本当にいいの?というくらいお金がかからないし、誘われるまま行事にも参加していましたが、やはり檀家さんからすると余所者がお寺を利用しているという認識もありかな、と思っております。 また、宗派も違うのに法要をお願いするのは常識外れなのではと今になって悶々としています。 住職さんは快く受けてくださいましたが、なら一層お布施くらいは高額納めるべきなのか? そして檀家でもない者が気軽にお寺を利用して良いものか。 助言くだされば有り難く存じます。

有り難し有り難し 13
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