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勝ちたいという気持ちの意味がわからない

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有り難し有り難し 27

全く知らない人なのに、やたらと外見を張り合ってくる人っていますよね。

自分より若い学生さん、フリーターのような人とか。ちょっと僻みっぽいおばちゃんとか。

私は嫉妬したり相手より勝ちたいという気持ちが薄いので、全く知らない人と自分を比べる意味はわかりません。

たまたまそういう気持ちの人と出会ってしまった時はその場を早めに立ち去って関わらないようにしています。

そういう時間があるなら自分を磨く努力すればいい、と思っています。

相手と、自分を比べて何になるんでしょうか。
努力せず、ただ人を悪く言っても自分が良くなることはないのに。

私は、張り合いたい人同士張り合って関係ない人は巻き込まないでほしいなと思ってしまうのです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

早めに立ち去るで正解です

 こんにちは。

 何でも比べて優位に立とうとする人っていますよね。私もそういう人苦手です。

 先日、オリンピック・パラリンピックが行われました。試合を拝見していて思った事は、もちろん選手のかたは勝ってうれしい負けてくやしいという気持ちはあるでしょうけど、結果以上に、自分の力を出し切れたかどうか、という方に気持ちが行っているように感じました。つまり他人と比べず、自分がどうだったかに重きを置いていると思いました。

 弱い犬ほどよく吠えると昔から言いますが、比べたがるのは、自分が弱いことがわかっているのに相手より優位にたちたいという心の表れだと思います。本当に強い人は比べるような事はしません。
 
 まあ、張り合いたい人同士で張り合えば良いのですが、おでこに「私は張り合うのが好きです」とでも書いてあればわかりやすいですが、見た目では分からないので、張り合いの対象にされてしまうのは仕方ありません。早めに立ち去るのが一番です。

 一方で「比べるあの人は弱く悪い」、「比べない私は強く正しい」という考えはまた差別となり危険です。比べたがる人は比べたがる人だと認め、あなたが気にしないことです。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

同じ土俵に乗らない

相手に一人相撲させればいいのです。
そうすればいつか自分を相手にしていたことがわかるでしょう。
それも慈悲です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

なんだか比べる人にうんざりしている自分がいました。

これからは、そういう考え方の人もいるんだ、相手の考え方も受け入れて見てみます。

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