命とはなんなのでしょうか
先日ある野良のまだとても小さな子猫に出会いました。
車に轢かれそうになっていて急いでいたためとりあえず家に連れて帰り少しご飯を食べさせ母猫の元にすぐ返したのですが嫌な予感がしてその後見に行くと1匹車に轢かれていました。
ショックでした。轢かれた子は林に埋めました。
このままでは残りの子も死んでしまうと思い林の奥に移動させましたがすでに育児放棄されていたようで天候がとても悪かったためいけないと思いながら見に行くととても汚れて弱っている様子でした。
このままでは死んでしまうと思い家に連れてきましたが家はすでに猫を飼っており夜中まで話し合いましたが経済的な理由から(現在私が心身共に具合が悪く働きに出られないため)飼えず里親探しも考えましたがもし見つからなかった場合の事を考え助ると諦めるしかありませんでした…
話し合った結果あそこなら生きていけるかもしれないという場所に置いてきてあとは元気に生きてけるようにと祈ることしかできず帰りました。
その後毎日頭から離れず涙がとまらない日々でした。
そんな私を見かねた旦那がある日見に行くと体の大きな子は元気になったようで遊びまわっており小さな子の方はもう弱り切っていつ死んでもおかしくない状況だったようです。
でも誰かが世話をしてくれている形跡がありその話を聞いて涙がとまりませんでした。
そしてその数日後SNSをみているとなんとあの体の大きな方の子猫が心優しい方に保護され里親募集されていました。
その子だけが生き残ったようです。
その後最初に見つけた道路のあたりで子猫が車に轢かれていたのでその子も兄弟の子だったようです。
1人ぼっちでさまよっていたのですね。
私は身内やペットが死んだ経験がなく、その三匹の子猫が初めての死を目の当たりにした経験でした。
この世にはこんなに悲しい現実があるのかとショックです。
とても可愛らしく過酷な状況の中一生懸命に生きようとしていた姿が
目に焼き付いて離れません。
なぜあの子猫たちが死ななくてはならなかったのでしょうか。
あの子達のような子がたくさんいるのかと思うとどう自分の気持ちを整理すればいいかわかりません。
自分のした事は良かったのだろうか…無力な自分が情けないです。
早く元気になり働いて動物のボランティア活動をしようと思っています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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阿弥陀様のお慈悲の中に
いのちの現実というものは厳しく、時に残酷です。
この自然界でおきる出来事は人知の及ぶところではないことを痛感させられます。自然の前に人間はあまりに無力です。もちろん人間もその一部ではあるはずですが…。
(母猫は自分が育てられるキャパシティを心得ており、それを超える分は育児放棄したり捕食してしまうという習性もあるそうです…。人間の匂いがつくと子猫でも敵とみなしてしまうという説もあります。…ほんとうに人知の及ぶところではありません)
私たち人間にはそんな現実を目にし「ものをあわれみ・かなしみ・はぐくむ」心があります。
その心はとても尊いものだと思います。今回のトム様の行動がそれでしょう。
しかし、浄土真宗の宗祖親鸞聖人は私たちの「ものをあわれみ・かなしみ・はぐくむ」心で思い通りにその対象を救い遂げることは「きわめてありがたし」=ほとんどない と言います。
おっしゃるとおり無力な自分が情けなくなる瞬間です。
そんな私をまるごと救ってくださる仏様が阿弥陀様です。「ものをあわれみ・かなしみ・はぐくむ」ことを徹底できないこの私を憐れんでくださいます。
私たちはご縁の中でこうした「救いたい」しかし「どうしようもできない」という場面に度々遭遇するでしょう。
その時は私にできることをし、あとは「南無阿弥陀仏」とお念仏申すしかできません。これは投げやりなお念仏でも罪滅ぼしのお念仏でもありません。
「ものをあわれみ・かなしみ・はぐくむ」慈悲を徹底できない私の無力さを痛感する時、そんな私を包んでくださる阿弥陀様のお慈悲に気づかされます。
私が救えなかった対象も必ずや救ってくださるでしょう。それは私が私の思いで想像できるような(長寿とか健康とか)救いではないでしょう。
この自然界で私たちが不幸だ、残酷だと思ってしまういのちの現実を必ずやお救いくださいます。
「いつでも・どこでも・だれでも」「あるがままに」「共に」ある阿弥陀様の救いは私の思いを超えて全てにはたらいているのです。
ですから、私たちは無力ながらもご縁の中で自力を尽くし、そしてその自力が全く通用しないことに気づかされる時、「南無阿弥陀仏」とお念仏申し、阿弥陀様の救いに感謝しおまかせするしかないのだと感じます。
トム様も今回の子猫も阿弥陀様のお慈悲の中にあるのです。阿弥陀様は全てを救うと誓っておられます。
命を愛おしむ心 どうぞ大事にしてください
いつの時代も、人も動物も生き難き世を必死になって生きて来ました。動物との関係も、時には外敵であり、時には獲物であり、時には家畜で有り、時には愛玩(ペット)であったと思います。狼でも狐でも、狸でも鹿でも、熊でも猪でも、馬でも牛でも、犬でも猫でも、それぞれの環境の中でそれぞれの命を全うすべく必死に生きてきたと思います。
人間も他の動物たちも自分自身が生きるので精一杯で、他を愛おしむ余裕が無い場合が多いと思います。それだけにトム様の優しさに心打たれます。
お釈迦様のご存命の頃、コーサラという大きな王国でありました。その当時の国王パセーナディ王がお后に、「あなたにとって、この世の中で一番愛しい人は誰か?」と訊くんですね。それに対するお后の答えが大変ドライでありましてね、「はい。王様、私にとって一番大切なものは(人は)私自身でございます」と答える。
と、今度はお后が、「王様、あなたは如何ですか?」と聞き返します。王様は「ウン、やはり考えてみると、私にとっても世の中で一番愛しい人は自分自身しかないな」と、こう答えたんですね。
お城の近くにある祇園精舎にお釈迦様が見えた時に、パセーナディ王がわざわざ会いにまいりまして、このエピソードを語っているんですね。その時に釈尊は「どの方向に心を心で捜し求めてみても、自分よりさらに愛(いと)しいものはどこにも見いだされない。そのように、他人にとってもそれぞれの自己は愛しい。だから、(自分を愛するために)他人を傷つけてはならない。」と語った伝えられています。要するに、「わが身可愛いや」というのをお釈迦様も、仏教も、私は認めると思うんですね。ただわが身が可愛いから好きなことをやっていいかというと、そうじゃないんで、やはり私にとってわが身が可愛いなら他人様にとっても、その他人様の自分というのは、その人にとって掛け替えもなく大切なものですからね。他人をわが身にひきあてて考えたら、自分を愛するために他人を傷つけるようなことがあったら、これは正しいやり方じゃない、と。むしろ他人を傷つけることは、自分を傷つけることにも連なってくる。こういうお説教をした。『こころの時代』奈良弘明先生の話を抜粋
すべての動物を愛玩することは不可能ですが、「助けてあげたい」という気持ちは尊いと思います。トムさん自身が生きる力になると思います。
猫を大事にされている事は本当に良かったと思います。
トムさま、はじめまして、文書を読ませて頂きましたが本当に猫を大事にされる優しい方だなぁと感じました。仏教でいう因果に関係する問題だと思います。3匹の子猫は生まれてくる因によって、車に轢かれたり、その他の理由の思いで果になったという事です。本当にトムさんが行ったことは無駄な事ではなく、出来るだけの事を行ったと思います。合掌