私が殺したの?
末期ガンの母の苦しみをとるため、縁切り寺へ行った道中、急変し安らかに逝去したと連絡がありました。
母は日中、普通にしていたそうです。
安寧を願ったばかりに私が母を殺したようにしか思えません。
生きる事を頑張っていた母に申し訳なく、自分が許せません。
お寺へ行かず母のそばになぜいてあげなかったのか後悔に苛まれてます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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最後の瞬間よりも、その尊い人生全体から真実に出会う
お母様のご命終謹んでお悔やみ申し上げます。南無阿弥陀仏
今は悲しみの内にあり、冷静な判断ができない状態かもしれません。どうかご自身を責めないでください。
お母様のこの世での縁尽きる瞬間と、ひまわり様のお寺参りのタイミングがたまたま重なってしまったということでしょう。
ひまわり様が祈ったのは「ガンの苦しみ」との縁切りではないですか?それとお母様のご命終は結びつきません。
たとえどんな祈りであろうとも、そのことで人間のいのちが終えることはありません。
しかし私たちは祈らずにはおれない存在です。
何かどうしようもない壁にぶち当たった時、あるいは最愛の方のために何かをしたい時、そういう「祈りを捧げる場」があることは、ある種の救いであると思います。苦しい事実から少し目を背けさせてくれる、そんな場です。
しかし、仏教の救いは本来であれば真理に目覚めること。真理は事実です。事実から目を背けない、事実以外のものに惑わされないというのが仏教の教えです。
お母様の最後の瞬間に立ち会えなかったことは大変な後悔であるのでしょう。しかしお母様の人生はその瞬間のみであったわけではありません。お母さまの愛情は時に厳しく、時に優しく、いついかなる時もひまわり様を包んでいたのではないでしょうか?
今、その大切な方のご命終に際し、その人生の全体から学ばなければいけません。お母様は最後まで生きることを投げ出さなかった。末期ガンという事実から逃げずに生き抜かれた。
そしてお母様はこの世の縁つきて仏様の世界に旅立っていかれました。これからは仏様としていつでもあなたにはたらきかけるでしょう。願いをかけてくださるでしょう。
仏様とは真実を教えてくれるはたらきです。
人は生まれたらやがて命を終える。しかし命を終えてもなお、残されたものに寄り添う仏様としてはたらき続ける。
そういう事実を真実として教えてくださっています。お母様はもう苦しんでいません。
今はもう仏様として
「祈ってくれてありがとう。もう苦しまないで。自分を責めないで。これからもいつでもそばにいるよ。」
と微笑みかけてくださっているのではないですか?
どうかもう事実でないことに苦しまず、今はただお母様の死を悲しみ、その人生全体から真実に出会っていただきたいと存じます。
質問者からのお礼
お坊様のお寺参りと臨終がたまたま重なったことだけということ。という回答に涙が止まりませんでした。ずっと私が母を殺してしまったと責めて本当に苦しかったです。母の人生は臨終だけではないというお言葉に母との思い出が少しずつ思い出てきました。
今、生んでくれてありがとう。私も頑張るね。そしていつかお母さんみたいなお母さんになるから見守っててね。と、遺影に話しかけました。
お話を聞いて頂き、本当にありがとうございました。