お浄土と天国
仏教でいう「お浄土と地獄」。キリスト教の「天国と地獄」
お浄土と天国、呼び名が違うだけで、同じ所だと思いますか?
地獄もまた、同じ場所だと思いますか?
私の娘は仏教で供養して頂いていますが、
もしも、私がこの先、
仏様を信じられなくなって、違う宗教を信じたら
お坊さんは、私が死んでも、娘には会えなくなると思いますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
どの「物語」に生きたいと願い、「今」どう出会うか
これまでのご相談拝読させていただきました。
キリスト教の説く「天国」と「地獄」がどのようなものか、私はキリスト教を学んでもいないし信仰もしていないのでわかりません。
どんな宗教であれ「死後」を説きます。むしろ「死後」を説くからこその宗教です。それぞれの宗教に様々な「物語」があります。
そしてその「死後」とは今生きる私たちにとってはどこまでもいっても「未来」です。
未来のことはわかりません。ですからどの宗教が説く「死後」の「物語」を信じようともその信心は「推測」であり「希望」にしか過ぎないのかもません。
しかし、その「物語」によって「今」救われるなら、その物語を信ずることができます。それが本当の「信仰」です。信仰により、その物語のようにありたいと「願い」今を生きる事ができます。
では、仏教においてはどうか。
仏教においては私がどんなに仏様のことを信じられなくとも、仏様の方が私を信じてくださっています。むしろ私を信じ、必ず救うぞと離さないたらきを「仏」と称しています。
そして仏教の説く「浄土」という「物語」はみなともに浄土に生まれ会うことができると説きます。
私もその浄土に生まれるものとなりたいという「願い」の信仰の歩みは、大切な故人と私を「今」出遇わせてくれます。
それは私が思うような、夢枕に立ってくれるとか、霊媒師に降り立ってくれるとかいう私の都合に立ち、私を慰めてくれるような出会いではありません。
そいう私の都合は超えて、いついかなる時も「真実のはたらき」となって私と共にある出会いです。嬉しい時は共に喜び、寂しい時は共に悲しむ「ありのまま」の「真実」。その「真実のはたらき」を仏と呼び、大切な方もその仏の一人と成られたのだという出会いです。
ですからみのり様が「今」、仏教以外の教えで救われ、娘さんの真実の姿に出会っていけるのなら安心してその教えを信仰してください。
仏様が信じられないのは仏様が悪いのではなく、信じることも信じさせることもできない私たち僧侶に責任があるのでしょう。しかし仏はそんな私たちをも信じてくださってるのです。
質問者からのお礼
吉武さま、丁寧なご回答をありがとうございました。
私にとっての救い、それは再び娘に会って、抱きしめることしかないのです。
そんなことは、生きている限りできない事です。
死んでも会えるかどうか、本当はわからない。それはあまりにも恐ろしく悲しい事。
あの世はある、きっとまた会える。そう信じることが
今の生きる支えです。他にはなんにもありません。
仏様のことを好きになれそうなご回答、感謝いたします。
遠藤さま、簡潔なご回答をありがとうございました。
どの宗教を信じようと、逝く先は同じなのですね。
またいつか、娘と会える日まで、なんとか生きないといけませんね。