わたしの何がいけないのでしょうか
この世で生きるのはすごく大変だとまだ10代ながらに思います。早朝から満員電車に乗り、夜遅く帰り、たくさんの予定用事をこなす。日常でさえ1日を一生懸命に生きるだけで精一杯。それでもわたしは精一杯努力して人のためを思って生活しています。なのにまわりの人たちにはどうやらそれが伝わっていないのかもしれません。大大友達もいるし、先生からも可愛がってもらっています。家族はもちろん親戚ともほぼ毎日連絡をとっています。でもそんな中にはわたしを傷つける人がいます。わたしは嫌われないようにつねに自分を外側から見るようにしています。もちろん気をつけていても完璧だとは思っていませんが私は自分が出来る限りの努力は怠ってないつもりです。私は人が大好きです。私のことを好きになってくれる人は誰のことでも大好きになりたとえどんなことがあろうとも絶対に傷つけません。だから人に傷つけられるとすごくすごく悲しくて人一倍傷つきます。なのにどうして彼らは私を傷つけ、悲しませるのですか。おかしいのは私ですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分が好かれたいか相手の気持ちに寄り添いたいか。
ハナさん、人の評価は気になると思います。私も僧侶をして、hasunohaで回答をしていると他の僧侶の評価が気になります。その他に私が困っていたら誰が助けてくれるのか、不思議に思います。この不思議が不安になっていきます。出来る人、良い子なら尚の事気になります。珠に叫びたくなります。
私は世界の人から嫌われないことは夢物語と思っております。ドラマのようなことは現実には中々起こりません。私もあなたのように人から嫌われないようにすればどうしたらいいかを学生のころから考えておりましたが、その考えは学生ならではの考えかもしれません。私は高僧の話を色々聞いたり、読んだりしている内に自分がどうあるべきかというより、人のためにな何が出来るかを考えるようになりました。
臨済宗開祖栄西禅師は建仁寺が貧窮して、修行僧たちが食うものが困っていた時、ある施主から反物の布施がありました。これを食料に替えて飢えを凌ぎましょうと皆で話しておりましたら、やっぱり、必要になったので返して欲しいとその施主に言われてすぐ返したそうです。その時修行僧たちはびっくりして栄西禅師に問いただしましたが、「我々僧侶はお釈迦様の教えを守り、修行しておるのじゃ。今日、食えないからといって、明日、生きられないわけではあるまい。教えを守り、困っている人を助けたのじゃ例えそれで命を落としたとしても教えを守って今まで修行できたことは誇るものじゃ。」と言ったそうです。
我々僧侶は別に人に好かれたくて修行しているわけではありません。お釈迦さまの教えを守り、修行をしているのです。喜ばれようが憎まれようが困っている人を助けるのが、教えならそれを実行するのみです。中にはそのような僧侶を騙そうとして嘘をつく人も現れるかもしれませんが、嘘だと分かっていても教えに背くような真似をしてはいけないと道元禅師は仰っております。
以上の事は『正法眼蔵随聞記』に載っております。一度、読んでみて下さい。感心するところも多いと思います。お勧めです。水野 弥穂子氏が訳した本が読みやすいです。
あなたが傷つく事はないのです。
「バラモンよ、君はこのように罵詈雑言(ばりぞうごん)をあびせかけて私を非難しているが、私は君の罵詈雑言を受けとらない。だから、バラモンよ、それは君にもどり、君のものだ」
(『相応部経典』第七「バラモン相応」)
お釈迦様はある時ひどい悪口を言われます。
でも、お釈迦様はそれに対して何も答えません。気にもかけません。
そして、悪口を言ったものに言います。
「私はあなたの言葉を受け取らない。だからその言葉はあなたに帰るのだ」
あなたを傷つける物を受け取ってはいけません。
受け取らなければそれはあなたの物にはなりません。
あなたを傷つける人に出会ったら、その言葉を受け取らず、ただ「あなたが幸せでありますように」と祈ってください。
それがあなた自身を守る事になります。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました。
頭ではわかっていてもなかなか納得していませんでした。お坊さんたちに言っていただき、自分の心を納得させることができたと思います。ほんとうにありがとうございました!