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弱さ

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有り難し有り難し 21

少しの事でイライラしてしまう事が多いと自分で思っています。
イライラしてしまうと 逆に悪循環だと思い自分に 落ち着け落ち着けと大丈夫と言い聞かせる様にしています。
小さい嫌な事が続くと 今日の私はダメだと落ち込んでしまいます
やはりこのイラ付きは性格の問題でしょうか
改善方法はあるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心をダブルブッキングさせない。

やりたいことを心の中で2つ以上同時に持たないことです。
たとえば私は今あなたにこの回答を入力中、子供が歯を磨いてくれとせがんでいます。
そこで私がこの回答入力を何としても最優先にしようと思ったら、子供の歯を磨くことが「邪魔」になります。
「やりたいこと」という欲求がそこに優先されていると、それを阻害するものが全て邪魔になって怒りが生じるのです。
期待・求め・自分ルール。
怒りには必ず原因があります。条件があります。
あなたのブチ切れ寸前5秒前を顧みましょう。
なぜアタシはあの時マジ切れ激おこぷんぷんcome着火ファイアープンスカ丸になったのか?と問いかけることです。
必ず「わたしの・わたしが・わたしにとって」という自分自分したものが見つかるはずです。
マジでブチ切れ5秒前にそれがある。広末かっ。
人間の怒りの原因は、かならず「わたしが・わたしの・わたしにとって」といった自分ルール・マイルールが見え隠れしてるもんです。自分ルールを犯されたり、侵害されると人は鶏のエサの取り合い、縄張り争いのケンカのようにトサカに来るのです。コケー!(これはオレのだ!コケー!)🐓
坐禅や瞑想やヨガや念仏や写経などは、そういう「わたしの・わたしが」という、マボロシの自分意識を完全になくするのに最適な行です。
そのマボロシの「私意識」なんてものは本来何処にも無かったという状態を見出せるからです。
その心を探すために仏道という自分を明らかにする旅に出てみませんか?
今あなたはもう怒っちゃいません。
今、生じていない怒りを消すことなんてできませんし、消す必要もありません。
今、怒りなどというものはどこにもありません。眠っている訳でもありません。
怒りは瞬間沸騰ポットのようなもので「アタシの‼アタシが‼アタシにとって!」という自分を認めた時だけ沸騰している時にしか怒りはありません。HEY YOU!!!!!👊
それでは、今から、怒りの原因である「私が、わたしの、わたしにとって」を除去する手術をします。
方法はカンタン。
イラッと来た時に上記の「私が、わたしの、わたしにとって」を、あ、これか!👀と、強く意識するのです。
そして、それが原因であることを痛感して、そのわたくし意識の方をイカンイカンと捨て去る、忘れ去るのです。
でも、どうせ、あんたなんかにゃー無理だろうけどな!笑 
(イラッ)✄

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様
回答ありがとうございました 途中まではなるほどと理解できてましたが でも どうせあんたなんかにゃー無理だろうけどな笑 という部分は理解出来ませんでした
相談しながらも 私には無理とゆー事でしょうか

長寿寺 柳原様
回答ありがとうございました
執着しない事ですね 少しづつ執着とゆーものから離れることが出来るよう 気を付けていきたいと思います
ありがとうございました

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