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神や仏を信じない者がやっても良い?

回答数回答 3
有り難し有り難し 71

見つけて下さり、ありがとうございます。

私は発症前までは、神や仏、ご先祖様や霊魂など、色んなことを信じていました。
母の教えで、特にご先祖様を大切にし、常に手を合わせていたと思います。

ところが発症後、何もかもが信じられなくなりました。
もしもそういったものがあるなら、兄弟姉妹の中で、1番ご先祖様を大事に思い、遠くのお墓にも毎年お参りしていた私が、何故こんなに苦しい思いをしなくちゃいけないのか?
同じ血の通う兄弟姉妹を、どうしてこんな形にしたのか?(プロフィール参照)
そんな思いばかりになりました。

母の教えに対する反抗心ではなく、あまりにも酷いと思われる人間からの仕打ちや、物語の様な自身の病気に、あらゆる『人間に関すること』を、心から信じることができなくなったのです。

そうしている内に、ここを拝見し、何度かご質問させていただき、写経や座禅をしてみたい…という気持ちが湧いてきました。

こんな私が、そういったことをさせていただくのは、良いことなのでしょうか?
また、それでも良いと言って下さるのなら、何に良いのか?、また、どこでどんな風に行えば良いのか?
教えていただきたく思います。

宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏とは・仏道とは・仏の救いとは

人生において起こる出来事はあらゆる複合的原因、つまりご縁により成り立ちます。そしてご縁により、どんな人も老い、病み、死に至ります。それは人によって早かったり、多かったりしますが、仏はそうしたものを支配する絶対支配者ではありません。

よって、先祖を大事にする、お墓参りをかかさないといった行為により仏が老・病・死やその他様々な不幸が訪れないよう救ってくれるということはありません。
仏の救いとはそうしたものを避けるすくいではなく、人生で何が起ころうとそれを受け入れて満足の内に生き、そして死んでいけるようにする救いです。
つまり、老・病・死や様々な都合の悪い出来事を不幸とおもうのは人間のモノサシ。仏の救いはそれに遮られません。

病で言うならば、病を治すのは医者の仕事です。しかし医者は治せる病しか治せません。仏は全ての病の人を救います。病をも受け入れ満足して死んでいけるいのちに目覚めさせるのが仏のはたらきです。

死で言うならば、どんなに長く生きようが、もっと生きたい・もっとあれもしたいと満足せず死んでいく人は早死にです。逆にどんなに早く死のうがどんな状況であろうが、それを受け入れ満足して死んでいく人生は幸多いです。

座禅も写経も、自分の都合で何か良いことないかな?とご利益を期待してもなんの意味もありません。
仏道に目覚めるためにおこなうのです。仏道に目覚めるというのは勉強して知識を身につけることではありません。仏道とは自己をならう教えです。周りに不満をもらし、満たされないものを外からいくら埋めようとしても埋まりません。
自分が今そのままで満足して救われていくのが仏道です。

信じることで病をなおしたり、その他の欲望を叶えてくれる神のような存在がどこかにあるならそれがすぐれているでしょう。
しかし断言しますがそんな神仏は存在しません。そう謳うのはインチキです。

仏は何があろうと私を離れず共にいて救ってくださります。つまずいた石をどけてはくれません。一緒にころんでくださるのです。

嬉しい時は嬉しいままに、悲しい時は悲しいままに、そのまま・ありのまま・おかげさま

それが真実に目覚めさせる仏というはたらきです。今一度自分が何に手を合わせていたのかを見つめ直してみましょう。仏は真実に暗い私たちを憐れみ慈悲で包んでいます。
仏は人を裁きません。道は全ての人に開かれています。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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とりあえず、善いことをすれば心に功徳(善い癖)がたまる。

仏教の修行は、煩悩(悩み苦しみの原因)を弱める効果があります。
仏様(真理に目覚めた方)が発見した、煩悩を弱めるために役立つ法則、その法則に基づく修行方法があります。

筋トレで例えるなら、筋トレでどこの筋肉を鍛えているのか知らなくても、また、筋トレで本当に筋肉がつくのか信じられなくても、筋トレをやったら筋肉はつきます。
でも、よく理解してどの筋肉を鍛えるためにやってるとか意識した方が、より効果的でしょう。

今、あなたは、筋トレの効果に半信半疑だけどとりあえず筋トレをやってみる状態です。
もちろん、仏教の修行の場合は、身体に筋肉をつけるのが目的ではありません。
心に善い癖をつけるのです。
心に善い癖をつけることを、「功徳を積む」と言います。
仏様を信じないより信じた方が、効率よく功徳を積めるでしょう。しかし、信じてなくても実践すれば功徳はあります。
功徳を積めばその分だけ煩悩(欲・怒り・怠け・プライドなど)が弱まります。
煩悩が弱くなってゆけば、いつかは、悩み苦しみを制御したり消したりできるようになるでしょう。
写経や座禅なども、煩悩を弱めるのに役立つ理由がちゃんとある、善い行いです。
しかし、理由がわからなくても、信じられなくても、とりあえずやれば、功徳はあるのです。

また、江戸時代のあるお坊さんが、「口先で 南無阿弥陀仏と言えばよい 心なくして申せるものか」と詠まれています。
一般的に、念仏をとなえるのには信心が大事だと言われます。
しかし、信心に自身がなくても口先だけでも念仏すればよいのです。
だって、本当に全く信心がないなら口先だけの念仏さえ出ないはず。
ちょっとでもやってみようという瞬間、もう信心が出始めてるのです。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

お礼は後程、もっとよく読み込んでから書かせていただきますm(._.)m

追記:写経や座禅に何かを期待してやりたいと思ったのではなく、ただ漠然と、やってみたいなぁ…と沸いてきたものです。そんな気持ちでは、やはりやるべきではないのでしょうか?




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吉武文法 様
お答えいただき、ありがとうございます。

私がお参りしたり、手を合わせていた頃は、何かをお願いすると言うより、いつも見守って下さってありがとうと言う気持ちをお伝えするためでした。
ですので、正直に書かせていただきますと、最初読ませていただいたとき、少しムッとしました。

しかし、何度も読み込んでいる内に、そのムッとしたのは何故か?と感じてみると、やはり何かを求めて手を合わせていたからなのかも…と気付きました。

そこでご質問させていただきたいことがあります。
もし宜しければ、お答えいただけると嬉しいです(スルーしていただいても構いません)。

『真実に目覚めていない人が悪く、真実に明るいことを善とするのです』
真実とは、目覚めるとは、何を、どの様に?ですが、これは言葉では教えていただけないモノでしょうか?気付きでしょうか?

仏道に目覚めたとして、こんな私でも、また優しい気持ちに戻れるのでしょうか?

『仏道とは自己をならう教えです』
少しわかり辛いです。申し訳ありませんが、“自己をならう”とは、どういう意味でしょうか?

『仏は何があろうと私を離れず共にいて救ってくださります』
救うとは、“私に起こった様な出来事”が起こらない様、守って下さると思っていましたが、現実は違いました。
では、何から救って下さるのでしょうか?
この考えこそが、何かを求めていた結果なのでしょうか?

だとすると、『救う』ことの意味が、私にはよくわかりません。
失礼を承知で書かせていただきますと、何があっても、どんなに辛く苦しくとも、一緒にいるから心が救われるよ…と仰るなら、それは仏様でなくとも、縫いぐるみでも同じことが言えるのではないでしょうか?

随分と失礼なことを書きました。お許し下さい。
正直な気持ちです。




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願誉浄史 様
お答えいただき、ありがとうございます。

優しくわかりやすいお答えに、ホッとさせられました。

『今、あなたは、筋トレの効果に半信半疑だけどとりあえず筋トレをやってみる状態です』
既に始まっていることをお伝え下さっているのかな?と感じました。


修行と言われると、自身の中に若干の抵抗が感じられますが、“心に善い癖をつける”とは、美しいお言葉だと感じます。

発症してから、汚い、(一般的に)良くないモノばかり見聞きし、言葉にしていました。
親も兄弟姉妹も教師も同級生たちも…全てに裏切られていたことをPTSDで知ったとき、その衝撃は物凄くて、心が死にました。
そして、神や仏などを含む、何もかもを信じなくなりました。信じることができなくなったのです。

だって、自分自身でさえ、本来の自分ではなかったのですから!!

普通、ご理解いただけないことは承知しています。
信じたくても信じられないのではなく、信じることが出来ないのです…自分のことさえも!!!です。


それでも個人を怨むことが出来ず、自身を傷付け、自身を無にすることばかり考えていました。

それが今、
『心に善い癖をつけることを、「功徳を積む」と言います』
(こうなると、また、言葉に若干の抵抗を感じますが)、心に善い癖をつけたい…と、感じる様になっています。


『煩悩が弱くなってゆけば、いつかは、悩み苦しみを制御したり消したりできるようになるでしょう』
このお言葉が本物であるなら、私は、“心に善い癖をつける”ことをやりたいと願います。


何故、今、写経や座禅をやりたいと思ったのかはわかりません。
発症前には、和歌山と埼玉の宿坊に泊まり、座禅も写経もしたことがあります。
そのときは、集中できるし、雑念が頭からなくなること以外、よくわかりませんでした。


『ちょっとでもやってみようという瞬間もう信心が出始めてるのです』
背中をおしていただいた気持ちになれました。


ありがとうございました。
機会を見つけて、やらせていただこうと思いますが…何を基準に、お寺選びをすれば良いのでしょうか?




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柳原貫道 様
お答えいただき、ありがとうございます。

耳にしたことはあるけれど、よくわからなかった…お釈迦様の教えと、日本の仏教…とてもわかりやすく、この年でやっと理解できた気がします。

『信心があろうとなかろうと徹底して取り組めば、必ず成果があると思います。是非、やってみて下さい』
背中をおして下さって、ありがとうございます。
やってみようと思います。

日本の仏教を、正しくわかりやすく、大勢の方にお伝えしていただきたく思います。

ありがとうございました。





~~~~~~~~~~~~~~~~
吉武文法 様
文字数の制限があるのですね。知らないこととは言え、わざわざ削除してお答え下さって、有り難く、また同時に、申し訳なく思います。m(__)m

せっかく書いて下さったご回答を読めなくなってしまったこと、悲しく思います。


お伝えしようとして下さった仏様の救いの意味、(頭で)よく理解できました。
私は色々なモノにとらわれすぎていることも、わかりました。

満足の内に死んでいける自信はありませんが、理解できただけでも、私の(一般的には良くない)望みから少しは遠ざけられたのかも知れません。


『(略)何一つ自分の力ではないことに気がつくでしょう』
はい。気付かされました。ハッとしました。

それが仏様のお陰…というものかどうか、まだ私にはわかりません。
しかしながら・・

『それで死のうと思っても自分の力では死ねません。それすら「おかげさま」です』
正直に書かせていただきますと、何度か自殺未遂をした私ですが、それさえも自身の力ではなかったと言うことにも、気付かされました。


『私のいのちなのになんでこんな目に合わなければいけない?と(略)』
これこそが、私を苦しめている原因なのかも…と、感じることができました。
少しずつでもそこへ近づくことができたなら、この苦しみから解放されるかも知れないと、希望も出てきました。



まだ、“生かしていただいてありがとう”という思いにまではなれませんが、

『一人で苦しんでいるという自らの自己中心性・罪悪性』
が、座禅や写経がきっかけとなり、こんな私でも知ることができたなら、救われることもあるのかも知れません。
この救いこそが、吉武文法様の教えて下さった、仏様の救い…なのですね。



我が儘なご質問へお付き合いしてたいただいたこと、感謝申し上げます。

吉武文法様の今が、今このときが、幸せであります様に。

ありがとうございました。


~~~~~~~~~~~~~~~~
吉武文法 様

昨日は、めまいで緊急入院していた病院を退院し、疲れが出たためお返事を書くことができませんでした。
また、3度目に書いていただいた吉武文法様のお答えを、充分に読み込む時間もなかったため、
気付いていない様な感じにお思いになられたかも知れません。
大変、申し訳ありませんでした。

貴重なお言葉の、2度目、3度目のお答えを、再度掲載していただけると助かります。
保存しておきたいのです。

どうか宜しくお願い致します。

PS:法覚寺HPから吉武文法様のFacebookページまで辿り着けましたので、お友達申請させていただきました。そちらメッセージにてお送りしていただいても構いませんので、もし保存されていましたら、どうかもう一度、私にも読ませて下さい。❝私の人生が変わる瞬間のお言葉❞かもしれません。宜しくお願い致します。

吉武文法 様

遅くなり、大変申し訳ありません。
3度目のご回答へのお返事を書かせていただきました。


私自身が、個人を怨むことができたなら、少しは楽になれるとお医者様は仰いました。
本当の意味での『楽』ではないと思いますが、治療の過程で、今より少しは楽になれるのかも知れません。

ですが私は、個人にではなく『“人間という動物全体”を厭悪』しているそうです。

ですので、『認める』の方が、しっくりくる感じはします。

ご縁というのは、良くもあり、良くないものもあるのですね。
良くないものでも、良くする方法を教えて下さるのが仏様。偉大な存在ですね。


『あきらめて、絶望していたところから、道を求め始めたように感じます』
ありがとうございます。嬉しいです。
私も、自身の変化を感じて、少々驚いております。

座禅も写経もやってみたいと思います。


『(私は浄土真宗なので南無阿弥陀仏の念仏もすすめますが)』
南無阿弥陀仏・・懐かしい響きです。
全てを無くし、全てを信じられなくなってしまった発症前に、毎日唱えていました。
また、それを発することができる日が来るとは考えられませんでした。
今は、また、その念仏を信じて唱えられる様になれるかな…と、少しの希望に変わっています。
これは、自殺未遂ばかりして、常に希死念慮に取りつかれている私の、生きることを意味します。



最後になりましたが、出過ぎたことなどと仰らないで下さい。
その様なこと、微塵も感じておりません。
逆に、ここまで親身になって下さり、何度も時間を割いて下さったこと、とても嬉しく、感動さえしております。

大事なことに気付かせていただきました。『発症してからの分岐点』『発症後の転換期』とも言えます。

その、大事なことを私に気付かせるためのお言葉だったのです。
ありがたいお言葉です。

吉武文法 様、本当にありがとうございましたm(__)m
お身体大切になさり、1人でも多くの方の苦悩に耳を傾けて差し上げて下さいね。

南無阿弥陀仏(照っ)

追伸:お忙しい中、お手数をお掛け致しました。
   既にお答えをいただいております。返信不要でございます<(_ _)>

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