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幸せになるとはどういうことですか

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今年の初めに離婚しました。きっかけは、元の主人が自殺未遂を起こしたことでした。事業に失敗し、これ以上仕事を続けて行くことができないからと、自殺未遂をしました。

偶然死には至らず、会社で倒れていたところを私が発見しました。それからは元主人の通院に付き添い、自分自身もしばらく病院通い、事業の後片付け、借金の返済の肩代わりを私の両親へお願い、彼に関係するすべてを終わらせて離婚しました。

離婚してからは趣味に没頭できたし、新しい会社で新しい仕事を覚え始めて充実しています。好きな人はできましたが、既婚者なのでぐずぐずと想いを断ち切れずにいます。そんな中でも、張り合いのある生活をしているつもりです。

が、将来のことを考えたとき、ふと幸せになるとはどういうことなのだろうと思います。子供もいません。今は健在の両親もいつかは亡くなり、妹も結婚すれば向こうのご家族を大切にしなくてはいけなくなるでしょう。

結婚や恋愛も、また元主人と同じことになったらどうしよう、と思うと、相手に悪い気がして、恋愛感情を抱く相手はいてもその先に発展することはないのだろうなと思ってしまいます。

現在好きな人である既婚者の方も、既婚者だからこそ好きなのです。
これ以上の発展はありえないし、自分に対して興味を抱いてはもらえない人なので。優しくしてもらって、それがきっかけで好きになりましたが…。

だからこそ、私はいつか一人になります。そのとき、幸せに生きていられるのだろうか。じゃあ、幸せに生きるってどういうことだろうかと漠然と不安を覚えます。

こんな私に、今生きるためのアドバイスを、
そしてこれからの幸せを見つけるためのアドバイスをいただけたらと思います。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人は誰もが無限の縁に支えられて存在している完全な1人。

完全に一人になる、独りになる勇気と決意と「ああ、本当に一人なんだ」と思いきる気持ちが大切です。
もちろん私たちは無限の縁、支えによって存在しています。
ですが、私は今、家族もいますが、完全な1人を生きてます。
今私は眼科で診察待ちです。
この後は子供の幼稚園のお誕生会に出席しなければいけません。
間に合うかわかりません。
ですが、私はここにいる。
オマケに子供の好きなサイボクハムソーセージ(ウマい)とハムjも狭山市駅で買ってこなければいけないというミッション。11:00からお誕生会なのに。今10:54。
「間に合わない。あわわ。」という思いが横切る。
ですが、私はここにいる。
診察も終わってないのに。
ですが、私の体はココにしかない。
ソーセージとハムを買ったら確実に娘のお誕生会に間に合わない。
これというのもすべては出かける前に急にやってきたあの人たちのせい、、、とか、人のせいにしても私はそれでもここにいる。
まだ、診察は呼ばれない。
薬なんか貰っていったら、確実に娘の誕生会に間に合わない。
ああ、私はまた妻からの評価が下がってしまうであらふか。
それでも、私は、ここにいる。
ここを生きている。
「諸縁を放捨し 万事を休息す」
これは道元禅師の説かれた「坐禅」の要点です。
坐禅とは座っている時だけの事ではなく、心のありようです。
わたしはここにただ、こうして、いる、だけ。
それがニンニン(人々)誰しもの、真相です。
それ以外の事をやっている訳ではないでしょう。
あなたも、元ご主人の事で色々大変だった大変だったと言われても、私もあなたも、これを見ている時は、ただ、こうしているだけでしょう。
諸々の縁を捨て去って、一切を休めて、今の事をこうしているだけ。
坐禅は、その「なにかしていることらしいもの」も捨て去ってしまう事です。
そうして、はじめてモノを観ることが出来る。ものを聞くことが出来る。ただ歩けるようになる。
ただ、生きられるようになる。
ただ、こうしてまっていられるようになる。
そう。たとえ、娘の幼稚園の誕生会におくれようともね…!(行ってやれや)
私の居るところにしか、この身は存在しない。
私の居る時しかその時は存在しない。そこをただ、いきる。
幸せとやらは、気づいたら求めなくてもそこに共にある。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

幸せは過去や未来にあるものではありません。

いろいろとご苦労されてこられたのですね。
ご心労も多かった事と思います。
まず、どうかお心お身体をご自愛くださいね。

さて、将来の事を考えての不安を感じておられるようですね。
将来も幸せでいられるかと…。

生き物は必ずその身体の寿命があり死を迎えます。
例外はありません。

そして物事は常に移ろい変動していて一定ではありません。

何より、生き物は単独で生きる事すら出来ません。
空気一つとっても人間は自分だけでは生み出せません。

多くの関わりの中で、
それぞれが補い合ってそれはそれは美しいほどのバランスを持って
皆で生きています。

このこと自体が奇跡のようなもので、
そのこと自体に強烈に深い愛を感じるのを禁じえません。
言ってみればこれが幸せの本質かもしれないと私は思っております。

幸せは、今、この瞬間しか感じる事が出来ないものです。
将来に照準を会わせて幸せを考えると今の幸せを実感出来なくなってしまいます。

今、生きている奇跡に感謝して、
今出来る事を精一杯する事が一番ではないかと思います。
そうしていると、何か先に起こったとしてもそれを受けとめて、
その状況中にも幸せがあることに気がついて行けるのではないかと思います。

お答えになっていなかったら申し訳ありません

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有り難し
おきもち

個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

幸せの基準は人それぞれです。人に決めてもらうことではありません。
例えば、妹さんが結婚したとして、はたから見て、なんとなく幸せそうだな、と思っても、それはご自身の幸せとは何の関係もありません。
その時に、ご自身がまだひとり身だったとしても、妹さんと比べて、どちらが幸せか、というのは決められないのです。

ご自身が、ひとりでは幸せになれないかもしれないな、と感じたならば、「既婚者だからこそ好きなのです」というような開き直りをやめて、未婚者と一緒になるように動けばよいと思います。

趣味に没頭できたり、新しい仕事も覚えて、張り合いのある毎日を送ることができていることが幸せならば、現状のままでもよいでしょう。

でも、きっと本当は、誰か、一緒に歩んでくれるパートナーが欲しい、と思っているんですよね。

元のご主人が選んだ道は、あなたの責任ではありません。
元のご主人の幸せも、元のご主人自身が決めることだからです。
だから、「元主人と同じようになったらどうしよう」と思い、相手に悪い気がする、というのも、あなたが決める事ではありません。
その時に、いい感じになった相手が決める事です。

このことを頭において、前のご主人についての考えに縛られることをなくしてください。
そうしたらきっと、あなたの幸せは、すぐ目の前に見えてくると思います。

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おきもち

浄土宗の佐山と申します。 浄土宗教師の資格を得たあと、10年間のサラリーマン生活ののちに、この羅漢寺にお世話になり、2014年に住職として晋山いたしました。 現在は、「ここより」というサイトの編集長を務めています。 まだまだ悩める道の途中ですが、少しでも皆さまの力となれるよう、がんばります。

質問者からのお礼

天恩山 五百羅漢寺 佐山拓郎ご住職様

丁寧な回答ありがとうございます。
確かに、心のどこかに自分が寂しいときに一緒にいてくれる人がいたならいいのに…と思うところはあるように思います。だからこそ、離婚して一年に満たないにもかかわらず、優しくしてくれた人に心を寄せてしまったのかもしれません。
少しずつ元主人の影から離れて、今の自分に素直になってみようと思います。
ありがとうございました。

安穏寺 (天岑寺) 丹下覚元ご住職様

丁寧な、そしてユーモラスな回答を頂き、ありがとうございます。くすっとしながら拝見しました。
そしてそんなご住職の言葉にくすっとできる今、私は一人でこのお礼を書いています。でも、周囲には会社の方がいて、いつもたくさん話しかけてくれて、私が一人きりにならないように気を使ってくれています。
あ、一人だけど、一人じゃない。でも一人。
こうして気づけることが、第一歩なのかな、と思いました。
元主人との縁を断ち切り、新しくできた縁の中で見つけ出したものをまた大切にしていきたいと思います。
ありがとうございました。

悟東 あすか ご住職様
丁寧な回答をありがとうございます。またお心遣い頂き、本当にありがとうございます。
元主人との縁を断ち切ったことで、私の環境はがらりと変わりました。そして、新しい縁を結ぶことで、また少しずつ自分が変わってきたように思います。それに気づいていながら、いつか、のことを心配し、悲しく思うのは違うような気がしました。今この瞬間を生きることを大切にすることが、どれだけ幸せなのかを教えて頂いた気がしました。
少しずつ、自分の幸せというものがわかっていくのかな、と思います。ありがとうございました。

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