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レズビアンはどうすれば治りますか

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有り難し有り難し 37

私はとある女の子を好きになってしまいました。しかし、それは友情でも恋愛感情でもあるのです。私は彼女の恋人にもなりたいと思ってました、けれども先日気持ちを伝え、ふられてしまいました。ふられたらあきらめようと思いましたがなかなか以前のように友達として接することができません。自分のレズな部分が邪魔をします。お願いします、どうすればレズビアンが治るか教えてください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自然に身をまかせ

治るとかいうものではないでしょう。
病気というわけではないですからね。

あなたは好きになるとはどういうものだと思いますか。相手を自分のものにしたいと願うことですか。相手に自分を求めてほしいという願望ですか。

本当に人を好きになるとは、自分のことは後回しにしてでも相手の成長を願い幸せを願うことでしょう。自分本位の好きは勝手なものです。

ふられたら素直に認めれば良いでしょう。またほかの出会いがあるまで自然に身を委ねたらいいです。明日あえば、そこにふられたなんてレッテルはくっついてませんから、自然に振る舞えばいい。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

治そうとするのではなく…忘ずる。

私に恋をする他ありませんな♡
やれやれ困りますわな。
は冗談として。
以前夫婦でオカマバーブームの時にお店のオネェとお話ししました。その人は別にオトコだけ恋をしているワケではなく、どっちも好きになる、とのこと。舐められましたけど、指。
マドンナも昔なにかのCMで言ってましたワ。「こえなさい。性別を。」って。
仏教では不邪淫戒という戒があります。
これは一般的には道ならざる愛欲を犯しちゃいかんというような意味もありますが、
「男女の隔ての心にしばられ、性別という意識に縛られる」事も不邪淫戒を犯すことになるのです。
男女の区別はあっても、男女の優劣はありません。
私はこれを入力しながら自分が男性であることも埼玉県であることもオテラローンの借金があることも忘れています。
自分がレズであろうが、過去に何をしてきたとしても、一切を自動洗浄して常にさっぱり流し去っている素晴らしい働きが人間はあります。
そこにまかせて常に清らかに生きるのです。
一人の女性として、人を好きになる。
シンプルでいいのではないでしょうか。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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