母親の死と罪悪感
以前にもこのサイトに投稿させてもらった者です。
母親の死から一ヶ月少々経ちました。
ですが、強烈な罪悪感が毎日毎日、自分の胸をえぐり切りきざみます。
数分違いで看取れなかったこと
死を察して、寂しく孤独を感じていた母親に付き添わなかったこと
どちらも僕がその気になればいくらでも出来たことなのに、自分のことを優先するばかりに、それをしなかった。
その結果、母親を孤独と寂しさの中で誰にも看取られず、逝かせてしまいました。
今更それを嘆いても、後悔しても、どうしようもない。
でもどうしても、頭の中が一日中、そればかりなんです。
勇気はないですが、常に勢いに任せて、自分で命を絶つ考えを持ちながら生活しています。
というか、その日をやり過ごすのが精一杯で・・・
僕もいつか逝く時は、独りで孤独に死ぬことになるんだろう?とか、食事をするにしても、あんな親不孝なことをしておいて、ご飯なんか食べる資格が俺にあるのか?とか、すべてが悲観的にしか考えられないんです。
日が経つにつれて・・・とかよく言われますが、僕の場合は日に日に罪悪感が大きくなっていくようで、そのうちどうにかなってしまいそうです。
もちろん、まだ母親が逝った事実も受け入れられてない状況で・・・
もう二度と逢えないと思うと、寂しくてたまらなく・・
母親の
『寂しい』
『何でまだ死ねないの?』
『家に帰りたい』
この言葉が一日中ループしていて、恐ろしく辛いです。
僕は生に値する人間なんでしょうか?
こんな親不孝な自分が、のうのうと生きていていいんでしょうか?
こんなこれ以上ない親不孝物の息子に、この先の未来はあるのでしょうか?
また、未来があっていいのでしょうか?
これほど辛い毎日で、生きる意味は?
罪悪感に駆られて生きていくのが辛い状態です。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
それが自分を優先させている生き方であるように感じます
あなたがお母さんより「自分を優先するばかり」であったと反省しながらも、今もやっている事が、お母さんより「あなたの考えを優先させている姿」である事に気づくべきです。
いたずらにそうやって自分を責める事と「本当に申し訳なかった」と供養、懺悔することとは別の事です。
お母さんとの40年間は、そんなに苦しみ通しの人生であったのでしょうか。
楽しかったことだって山ほどあるはずでしょう。その楽しい思い出まで打ち消すような事はするべきではないと思います。
最期の印象がたとえ悲哀に満ちた印象であったにしても、もっと素晴らしい時間だってあったはずです。
ちゃんともう一度、心を通わせることが必要なのではないでしょうか。
あなたの中のどこかに「人間死んでしまったから、もう終わりだ」と思い込んでいるところがあるのでしょう。それこそ誤ったものの見方です。
なぜなら実際にあなたは母の死後一ヶ月も、母に対する気持ちが日に日に強く起こっている。
何故、そこに眼を向けないのでしょうか。
苦しいのは、母との関わりが死んでからでも続いていることの確かな証。
そして、心の通い合いを疎かにしてきたままの確かな証明です。
霊とは本来そういう思いの事なのです。
外に霊魂があるのではなく、あなたの中の母親への思い、関わりの実質なのです。
確かな影響力として毎日、自分の上に生きている時と寸分違わず、影響力が及ぼされている事に眼を向けてください。人は死んでも終わりではないのです。
だから相手が亡くなろうとも、多くの人たちは関わりを続けて供養してゆくのです。
自分を責めて苦しみに浸り続けようとしていること自体が自分を優先させている姿です。
ダメだ、愚かだ、と自己の命を否定しようとしていることも、せっかくあなたをこの世に誕生させてくれたお母さんの尊厳をも打ち消すようなことです。
だから、なおさら苦しいのです。
そういうのをこそ親不孝というべきです。
あなたは、お母さんにちゃんと向き合ってこなかったところがあるのでしょう。
今こそ、ちゃんと向き合うべきではないでしょうか。
厳しいようですが、あなたを責めているのではありません。
人間が心底救われるには、自論を離れて、ネガティブな思考に拘泥せず、今をきちんと生きる事にこそあります。
人はすべてを許して肉体を離れます
きよ様、初めまして。
お辛い様子が目に止まり、久々に返答させて頂きます。
ご自責の念、痛いほどお察し申し上げます。
と申しますのも、20年以上前に亡くなった父に対する私の想いと重なったからです。
私はこれまでに、数えられないほどたくさんの方々をお見送りして参りました。
10歳を迎える前にお病気で亡くなったお子様。20歳を前に、自ら人生を終わらせたお嬢様。1歳の誕生日までに8時間にも及ぶ心臓手術を2回もしたにもかかわらず、帰らなかったお子様…
たくさんの方々の最期に接する毎に、どのような亡くなり方をなさっても、息を引き取る寸前にはすべてを許し、すべてを受け容れて肉体を離れるのだという確信がますます強くなって参りました。
そして、最後の呼吸とともに願うのは、跡に残す人の幸せだけだということに、何の疑いもありません。
悔やむお気持ちはよくわかります。しかし、何がいちばんのお母様への供養になるかと申しますと、残されたご自身が幸せになることではないでしょうか。
時間は巻き戻すことはできません、いま、どのようにすればお母様がお喜びか、これからご自身がどのようにあれば、お母様がお喜びびなるかをお考えください。
最後に、たくさんの息を引き取る方を見送った、救急救命士の方からのお話をお伝えしたいと思います。
⇒http://digitalcast.jp/v/20917/
息を引き取る寸前に、自分につぶやく「三つのことば」もごらんください⇒http://shukai.seesaa.net/article/282633501.html
仏教から少し離れますが
きよさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈と申します。
>僕は生に値する人間なんでしょうか?
>こんな親不孝な自分が、のうのうと生きていていいんでしょうか?
上記のきよさんのコメントを読んで、少し気になりましたので仏教を少し離れた視点から話を進めていきたいと思います。
身近な人が亡くなった喪失感は、一言で言い表せないくらい大きいものです。
昨日まで元気な姿をしていたにもかかわらず、今日は別れの儀式をしなくてはいけない。
儀式は過ぎて行くけれど、心が付いていきません。
人は、大きな喪失を体験した時に4つの段階を踏んでいきます。
1.何も感じられなくなる
つらい、悲しいをはじめとして喜びや楽しみも失ってしまったようになります。
これは、心が壊れてしまわないようにブロックをしているだけです。喪失感が大きいほど、深く沈んでいきます。
2.感情が大きく振れる
突然に泣き出したり、突然に理由もなく怒り出したりすることがあります。
本人の感情とは別の所で起こっているような気がするので、「気が変になってしまったのではないか」と心配されることもあります。これは、喪失を受けとめようともがいている状態です。
3.現実が理解できはじめる
少しずつですが、身近な人が亡くなったという喪失感を受け入れることができる段階です。それでもなお、第二段階へ行ったり来たりします。
4.喪失が思い出となる
故人が亡くなったということを受けとめ、供養していきたいという感情がわき上がってきます。未来に向かってご遺族が自分の人生を歩き始めます。
さて、きよさんはどの段階におられるのでしょうか。
文面から拝察すると1~2段階を行ったり来たりしていると思います。
この段階で心が壊れてしまったり、心を病んでしまうことがあるので注意が必要です。
きよさんには、その傾向があるように感じます。強く罪悪感を感じたり、自ら命を絶つことを考えてしまうようであれば専門家の手を借りることも検討されることをおすすめいたします。
ご自愛くださいますように。