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諦められない気持ち

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有り難し有り難し 24

お坊さんとのお付き合いは初めてだったので、仕事内容も時々きいてはいましたが、大変そうでした。新総代のことやらでも何か問題があるとのことでストレスもあったかと思います。ご家族にも要介護1,2級を二名抱えて、結婚は誰とも考えていないという彼でした。
お互いに会うことを決めて、動けない彼のもとへ私が一時帰国の時期をずらして今年の秋に会う予定でした。
ですが自分の仕事や身の回りの問題を抱えているときは交際相手のことを思いやれないと聞いてはいましたが、そんなときに私との些細な話合いの頻度が増えて、それで自分の環境を考えて別れを決意したと突然言われました。
彼のことがまだ忘れられません。忘れないといけないのでしょうか?諦めたくない自分もまだいるのは確かです。ちなみにもう音信不通になりました;


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

わたしは芯のある「おひとりさま」です。

これは、あなたをはじめ、全ての失恋をした男女、結婚をされている男女にお伝えしたいことです。
人をいくら好きになってもいいです。ですが、人に助けられようとしてはいけません。
仏教とは、自分で自分を生きる道です。
失われることがある、喪失感がある、執着があるという事は、相手に対して『得たい』という気持ちがあるのです。
より良い関係は、依存であってはいけません。所有があってもいけません。
仮に子供であっても、親は所有はしてはいけません。
当然、恋人同士でも同じことが言えます。
仏教であろうが無かろうが人生最終的には、そこに至らなければいけません。
別れは出逢いの始まり。
別れは、学びの授かり。
あなたに、もっと大事な生き方を教えてくれたのだと理解することです。
私は結婚をしていますし、妻の事も大事に思っています。
ですが、私は、この世に存在しているのは、勿論多くの方のおかげではありますが、存在としてはただ一人の存在なのです。
そして、全ての生命が、存在としては、独立個個の存在であると感じています。
これを、根底に持っていませんと、人に依存します。相手に依存します。相手がいなくなった時に、寂寥感、喪失感、執着が生まれ苦しみになります。
あなたは、これをきっかけに、他人とのお付き合いではなく、自分との一生のお付き合いを真剣に考えるべきでしょう。
アニメ「ドラえもん」であっても、いつかドラえもんは、壊れてしまいます。いつかのび太君は死んでしまいます。
自分の存在の真実を悟り、相手にも溺愛せず、独りでも大丈夫な芯のある生き方を歩みましょう。
それが本当の深い意味での「おひとりさま」です。
【私は、誰と一生にいても「おひとりさま」です。】そう、胸を張って言えるように、自分の命の本源をよく見つめてみてください。自分に出会うことがあれば、それは同時に、永遠に孤独にならないということなのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

お坊さんもただの人ですよ。

そのお坊さんがどんな気持ちで別れを告げられたのかがわからないのでなんとも言えませんが、もし、家のことを気にして、あなたに迷惑をかけまいと、そのようなことを伝えらたのであれば、あなた次第だと思います。

しかし、言葉の通りなのであれば、あきらめなければならないのかもしれません。

もともと、人は誰のものでもなく、誰を好きになろうが、誰と友達になろうが自由な存在であると思います。

ですから、出会っても別れてもそれはそれとして、少し距離を置いて自分を見つめ、その方との思い出などは、追わないことが大切だと思います。自分は今未練で切ない気持ちになっていることに気がついても、そのままに。

まだ目の前のことを全うしていくことが大切だと思います。考えないようにするのではなく、考えてしまったら、そっとしておいて、今に戻すようにしてみてください。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

邦元さま 回答ありがとうございました。一ヶ月ほど経ち、気持ちが少しずつ落ち着いてきました。おっしゃる通り またしばらくは彼のことを思い出すでしょうが、一日でも早く目の前のことをひとつひとつ楽しんで、前を向いてあるいていけるようになれたらと思います。ゆっくり頑張ります。

凡下 覚元さま 回答ありがとうございました。『自分で自分を生きる』人はそれぞれ個々の存在で、周りに依存するものではない。なるほど;と思いました。私も おひとりさま になれるよう時間かけて歩んでいきたいとおもいます。

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