「遊化」という言葉の意味や物語について詳しく知りたい
自分の悩みというよりも、知りたくて困っていることなのですが。。。
私は子どもの遊びの研究をしていて、「遊びとはなにか」という問いにずっと向き合ってきました。言葉の意味を探るうちに、遊戯という言葉以前に使われていたという「遊化(ゆげ)」という言葉にたどり着きました。
これは仏教用語ということなのですが、言葉の成り立ちや、意味をネットで調べてもあまり詳しいことは載っていなかったので、ここなら教えていただけるかと思い投稿しました。
修行の末、悟りをひらいたのちに自由自在に振る舞えるようになった”状態”の事を指しているということでしょうか。
また、それにまつわる仏教上の逸話などはありますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「遊戯」とは仏様の境地
「遊戯」とは遊ぶが如くに利他に行ずることができる仏様の境地を表します。
浄土教では阿弥陀如来のはたらきで死後お浄土へ参って成仏します。
成仏した後に、仏としてこの迷いの世界へ戻って他を教化すると言われるのですが、この功徳を「園林遊戯地門(おんりんゆげじもん)」と言います。
林の園で遊ぶが如くに他を教化してまわるという仏様の境地です。
この境地に至る仏様は、他を教化しているという自覚もないのだそうです。
仏になると、遊んでいる感覚で利他教化し利他教化している自覚もない、これを「遊戯」と言います。
「遊戯三昧」という境地に至りたいと思いつつも、至り得ぬ身です
「遊化」という言葉から私がイメージするのは、下記の観音経の一節です。
妙法蓮華経観世音菩薩普門品に「以種種形。遊諸国土。 度脱衆生。」という一節があります。この漢文は通常「種々の形を以ってもろもろのの国土に遊び、衆生を度脱したもう。」と読み下します。観音経では観音菩薩は三十三身に姿を変えると説かれています。自由に相手に合せて姿を変えて済度して行く。観音菩薩の自由自在さが感じられる一節です。でも「遊化」という言葉についての詳しい説明は特に存じません。
「遊戯」という言葉でwebで検索しても、仏教語としても解説は多くヒットしないかもしれません。「遊戯三昧」という熟語で検索すれば、かなり出て来ると思います。
『無門関』という禅の語録の第一則にある
「於生死岸頭得大自在、向六道四生中遊戯三昧。」が遊戯三昧の用例としてよく知られています。自由闊達な境地を表現しているのだと思います。
逸話となると、思い浮かぶのは、江戸時代後期の僧侶大愚良寛ですね。童話などの本で紹介される「子供達と手毬をついて遊んだ」「子供達とかくれんぼをして遊んだ」というイメージだけで捉える方も多いですが、道元禅師の書かれた『正法眼蔵』を読み、厳しい修行道場での生活も送っておられます。私は『良寛詩集』を拾い読みした程度なので、逸話等についてはあまり詳しくありません。ただ下記の漢詩には、禅僧としての修行の遍歴と遊戯三昧の境地が感じ取れると思います。
毬子
袖裏繍毬直千金
自誇好手無等匹
有人若問箇中意
一二三四五六七
乞食
十字街頭乞食了
八幡宮辺方徘徊
児童相見共相語
去年痴僧今又来
もともとが遊戯三昧
今、眼がみているものをみてください。
見えているものを見て、感じてください。
聞こえているものを聞いて、感じてください。
「考えるな!感じるんだ!」(Bruce Lee)
考える前の、感じているだけの世界は元々、素晴らしいのです。
遊戯、遊化状態なのです。
自分の私的な価値観、価値判断、分別、好き嫌いを加えなければ※、世界からは頂くことだらけ、授かりだらけなのです。
※好き嫌いを加えないとは、目や耳の働きにまかせている姿です。
ただ見聞きすることで、そこに判断や好き嫌いは、入り込む余地のないものとなります。
ただ見聞きしている時には、それがただそのように感受されるだけですので、それはとても心地よい状態なのです。
見たり聞いたりしていることが、心地よくないとすれば、それは坐禅や瞑想や念仏の必要性があります。
これらの仏行が、世界がフルーティーであることをそのまま感受させない曇りを去らせてくれるからです。
明日の朝、起きた時に、三分程坐ってみてください。
自分の考えを立てないでいる時は、世界と一体であるのです。
その一体となっているグル―ビー感とでも申しましょうか、考えやら私的な思いを加えていない時こそ、世界に遊戯し、遊戯されているのです。