人は論理か人間性か
人の在り方について悩んでいます。
例えば、難民問題。
「ドイツで難民を受け入れてから犯罪率が上昇したことや、差別意識が拡大したことから、日本は難民を受け入れるべきではない。」
こういった意見には、わずかばかりの知識と論理性があるが為に、賛同できてしまいます。
しかし、人というのは、元は人間性の塊で、困っている人がいたら手を差し伸べる者じゃなかったか、とも思います。
おそらく知識など持たない5歳頃の私なら、難民を受け入れるべきだと答えるでしょうし、もしかしたら今もそうあるべきなのかもしれないとも感じます。
論理性や知識なんて後付けのもので人間性を排除してしまったらそれは人間と呼べるのだろうか、と。
子供が「大人って汚い」と言うのを耳にしますが、その所以がこれだと思います。
人は知識と人間性、どちらに生きるべきなのでしょうか
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
思考は論理的であり、かつ高潔な人間性が必要です
思考が論理的であることと人間性の如何は相反する事柄ではありません。
理論的な思考と高潔な人間性を持つ人もいれば、非論理的であり人間性に問題のある人もいます。
論理的な思考をしながら人間性は最低、逆に、論理的思考は苦手だが人間性は申し分ないという人もいるでしょう。
私たちが目指さなければならないのは、当然、論理的な思考と高潔な人間性をあわせ持つことです。
この両方が具備されなければ人は正しく振る舞うことはできません。
ただし、あえてどちらかに重みを置かなければならないとしたら、人間性を重く見た方が良いでしょう。
知識と論理は棍棒のようなものでどのようにも振ることができますが、その棍棒を振るかどうか決めるのは大抵の場合、人間性に起発するからです。
できごとではなく感情を管理する
論理的な行動をし、穏やかな感情で過ごしましょう。
仏教では、怒りや憎しみ、貪りなどの感情は善くないのです。
たとえば、知らずに虫を踏んでしまったのと、虫を憎んで故意に殺したのとでは、仏教では圧倒的に後者の方が悪いことなのです。
たとえば、あなたがりっぱな仏教徒で、職業は警察官だったとします。
その警察官は、当然、犯罪者を逮捕します。
しかし、犯罪者に対して怒りや憎しみはないのです。
法律で決まっている仕事だから逮捕するだけなのです。
難民問題も、法律で受け入れ拒否だと決まったなら、それは仕方ないのです。
あなた自身が難民に対して怒りを抱かなければ良いのです。
また、政府に対しても怒らないでください。
難民受け入れ拒否に反対なら、反対するデモを行ってもかまいません。
そのときにも、怒りながらデモをしないでください。
怒りや憎しみを煽るようなデモは、正義を掲げていても、悪です。
質問者からのお礼
ありがとうございました。相反するものではないと言う視点には考えが及ばず、目から鱗です。