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離婚

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前回、質問に暖かいコメントをいただきありがとうございました

旦那とのことで離婚することにしましたのでご相談をしたく度々すみません

あれから旦那の言うとおりに食事を一番に食べたいものを作り、休日も1人でふらふらとどこかに行ったり、テレビゲームに夜中まで明け暮れるのにも目をつむりました

しかし、どうしても許せないことがありました

旦那がテレビゲームをしていた時、子供がコンセントを抜いてしまったらしく、セーブが出来なかったからと言って逆上し子供を殴りつけてました

本当にびっくりしてやめてくださいと子供を抱きしめ割ってはいりましたが、死んだらいいのになどと暴言と暴力を振るってきて怖くて話も聞いてくれなくて何もかも嫌になって

近くにあったゲーム機でとっさに旦那の顔を思いっきり殴りつけて子供をつれて両親の仕事場ま逃げました

人を殴った罪悪感もありましたが娘が顔にあざを作っていたのがとても悲しくて、仕事場にいた両親に事情を話、離婚することにしました

旦那は、鼓膜を破ってしまっていたようで
一生許さない。土下座して謝れ。地獄におちろ!親権は俺がもらうからな!などと言って暴れましたが両親や親戚がとめてくれて慰謝料をたんまり請求するといい出て行きました

こんな奴になんで手を出したのか後悔しています

こんな旦那でも子供のことを考えると必要なのか離婚に対して罪悪感もあります

子供のために離婚をやめた方がいいのか迷います


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

第三者の仲介が必要だと思います。

私があなただったら、の場合の話を致します。 
上手に離婚することですね。
子供の養育費を頂いてあなたの食べる分はあなたが働いて稼ぐ。経済的には大変ですが、それが嫌なら子供の為に旦那を改心させることです。
あなた一人ではどうしようもないですから、第三者の僧侶に仲介に入って頂いて、菩提寺もしくは信頼できる寺に相談しましょう。
台車ン社はフェアでどちらにも偏らない方が必要です。
弁護士は依頼主からカネをもたっていますから、フェアな立場ではありません。
私も正直、旦那が実際どんな人かわかりませんし、あなたとご主人との今までの関係もありますのでどうなのかはわかりません。子供を守るための正当防衛ですから殴ってしまったのはむしろOKです。
ゲームをやっていたのを邪魔されて娘を殴る、DVからの正当防衛でゲーム機で殴られた、なんてことが明るみに出たら一番非難を浴びるのは確実に本人です。坊主が他人様のダンナにこんなこと言っちゃゃ失礼ですが、ゲームごときでオンナコドモに手を揚げるオトコなんざ頭がイカれていると思います。ホトケにしたろか、思いますね。(-""-)👉( ゚Д。)あべし
世間はあなたの味方になってくれるでしょうから、まぁ、しばらくは心が落ち着くまでは相手にしないことですよ。
あなたの旦那さんは大人になれていない大人の姿をした子供、に感じます。
明るみに照らされないと本人が自覚しない問題ですね。
もし今も同居をしているようでしたら、旦那にばれない様に24時間衣服に身に着けられるICレコーダーなどを常に身に着けておきましょう。5千円ほどで電池が切れるごとに何もなければ消去を繰り返し、離婚の時に有利になるようにしておきましょう。
相手も離婚したがっている部分もあるでしょうから、安易に離婚するのではなく、子供の為に賢くなったほうがいいとおもいます。
慰謝料はむしろあなたがもらうべきものでしょう。慰謝料はともかく、財産分与、養育費は強制執行認諾約款書付き公正証書を作成して子供が成人するまでは差し押さえてください。司法書士に相談すると良いでしょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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