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彼のきもち

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先日、33歳浄土宗のお坊さんに別れを告げられました。もともと一度二度ならず何度か別れては本人同士もわからないまま付き合っていました。私は好意はあり彼は友達しか見えないと言われそれでも身体の関係は普段通り私も流されたままでもいい好きな気持ちは変わらないと思って受け入れていました。
もともとこういった状態になりだしたのも三年目の交際期間でそろそろ結婚。彼親に挨拶で交際は認めても価値観の違いで結婚までは反対と告げられてから環境が狂い始めました。
私の職種も気にいらなかったそうです。
それでも2人で頑張って説得しようと提案しても彼からは多少動いても自分で背負っていたのか状況を教えてくれませんでした。
悩むのも疲れた私は別れを告げては彼から離れましたがやはり彼も心配で連絡はきてくれてましたがヤッパリ離れてしまって彼の存在が強く離れたくなくよりを戻していました。
こんな繰り返しが続いたせいか私も精神的におかしくなって安定剤を多くとり自殺まで図ろうとしました。
先日も彼を引き止めたかった為に髪をむしったり、皮膚をかきだす動作。言った言葉も曖昧でしたが、ちゃんと記録をみておもいかいしてみたところ酷い言葉で傷つけてしまいました。
謝りたかったけど素直には言えず彼もまた会わずにメールで済ませたいとのことだったので考えた末に私ももう連絡してこないでと伝えました。
でも、、、正直スッキリしません。。でもこのまま悪く思われていたほうが彼にとっていいのかもとも思っています。。
自分もなんやかんやで自分の人生を自分で傷つけてそれが当たり前だと思ってしまって居心地も感じられています。
なぜかまだ彼との繋がりはあると勝手に思ってしまう。。こんな自分が気持ちわるいとも思っています。
かといって私も彼と一緒にいることは彼を傷つけてしまうとも思っています。少しでも彼の気持ちを分かってあげたかった。でも許せれないとこもある。もうこのまま離れたほうがお互いの為でしょうか?諦められない私はどうしたらいいでしょうか?毎日が怖いです。足がすくんだような感覚です。何かアドバイス下さい。宜しくお願いいたします。。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

愛と依存は違います

マユミさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈です。

マユミさんは彼と別れたけれど繋がっている気がして、スッキリしないのですね。

文面を拝見すると、彼を愛しているというより依存しているように思います。
「彼がいなくては生きていけない」というのは依存です。表面的には彼を愛しているように見えますが、彼を自分の思うようにしたいという欲求が透けて見えます。

人は見たいもの、必要なものだけを見ていることが多いものです。
マユミさんが見ているものは彼だけではないはずです。他に何が見えていますか?

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おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

不完全なコミュニケーションを完全に

芸能界でも某有名歌舞伎役者と、タレントさんとの破局報道がありました。
片方は「とっくに分かれた」と言っていますが、相手方が納得していないご様子。
人間、恋愛のやり取りはどこまで行っても一人対一人。
個人と個人の❝かたらい・会話・対話❞を疎かにしてはいけないのです。
そのやり取りに行き違いがあって、そこをお互い明らかにしていない、曖昧なままにしていることが心が晴れない最大の原因と言えましょう。
その不完全なコミュニケーションを完全にするのは、あなた(達)しかいません。
うやむやにしているところを明かしあうべきであろうと思います。
恋とは、相手と自分との理想の状況を想定する夢想、思い描き状態とも言えます。
全身全霊で以て、相手に自己投入をしたとしても、相手が同じレベルで居るとは限らないものです。結婚生活に入ってから、今までの自分の恋愛は、自分が相手に対して思い描いていた夢想であって、相手の現実は違っていた、幻滅したという女性も男性も沢山います。その時はすでに遅し、子供も生まれていたり、別れたくても別れられない状況になっていたり。こういう方々も恋愛の当時は、お互い燃え上って、モエあがっていた時期はちゃんとあったのに、そういう結果もあるのです。
そういう意味では、結婚前にお互いの、理想とする恋、自分の夢想が初期の段階で去ってくれたと考えてみてはいかがでしょうか。
好きだからといっても、現実的に合わないということはあります。
好きだからといっても、相手は自分の思い通りにならないものです。
自分が相手に対して思い描いているようでも、それはどこまでいっても、自分の中の砂上の楼閣であったということを見極める必要があります。
他人というのは、自己の上の身体感覚作用、心象作用であるゆえに、自分の身の一部であると思い込んでしまうものですが、どこまでいっても、他者は他者なのです。
今後新しい出会いの中であっても、相手への完全依存ではなく自分を生きるように致しましょう。http://hasunoha.jp/questions/1377

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お返事ありがとうございます!仰るとおり依存だときずきました。実際彼の家の様子を見に行く位です。自分が怖いです。だから離れてくれたことにも正直ほっとはしてます。
でも内心はまた連絡もしてくれると感じています。何を根拠にって感じなんですが。
今私が見えている先は、、死に対する思いと借金返すことしか頭が働きません。でもつらくても前に進むしか方法ないですよね?彼のことも思うだけでも思ったらいけないでしょうか?

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ