気持ちの整理がつきません。
昨年末に死産をし、元気に振る舞ってはいるのですが死産を受け入れてないからか口に出す事が出来ず気持ちの整理もつきません。
春に長男の保育園のバス遠足でクラスの女の子に「赤ちゃんは?」と聞かれ「いないんだよね」としか言えない私に何度も「赤ちゃんは?お腹もぅ大きくないじゃん。」と言ってきて困ってると長男が「いないって言ってるだろ!天国で見守ってるんだよ‼」と言ってくれて子供にそんな事を言わせてしまい罪悪感でいっぱいです。
長男はよく「これは赤ちゃんに買ってあげたら?」とか「ここは僕の場所でここは赤ちゃんの場所ね」とか「もうすぐ赤ちゃん誕生日だね。1歳だねー」と言ったりと長男の中でどんな存在でいるのか分からないのですがその度にちゃんと産めなかった事に申し訳なさを長男と赤ちゃんに思い苦しいです。
元気を装ってるだけで心がズタボロだからか円形脱毛症まで出来て心身共に壊れそうです。
赤ちゃんをもう一度元気に産めたら気持ちも変わるのか、けどそれは死産した子を無かった事にしようとしてるようにも思うし、けど赤ちゃんを無事に産みあの幸福感を味あわないと次に進めない様な気もして自分で何をどうしたいか分からなくなります。
亡くなった赤ちゃんは病気があり無事に産まれるか分からず治療するか生命力にかけるか選択され治療しても治せた事はないし1週間持つかがどうかと言われ生命力にかけましたが出産途中で亡くなりました。私が別の選択をしてたらこんな気持ちにならなかったのかもとか毎日後悔の日々です。
どういう選択が一番なのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
死んだ子も愛してあげよう
お子さんを亡くされた辛さはよく分かります。
自分も、小学生の頃に8最年下の妹を交通事故で亡くしました、まだ2歳でした。
もちろん家族は皆傷つき、家庭が崩壊しそうになりました。
人間は弱く、命は儚い存在だなとつくづく思います。
この世界のおらゆる物事は、様々な因(原因)が様々な縁によって繋がって生まれると、仏教では説きます。これが因縁です。
私たちの命も、たくさんの因が、色々な縁によって結びついて生まれ、生かされています。
けれども、この縁の結びつきがほどけてしまった時、命も失われてしまいます。
そうやって、長い長い時間の流れの中で、たくさんの命が生まれて、また死んでいきます。
そこに是も非もありません。
それが命の営みというもの。
いたずらに悲しむだけでは、前には進めません、まずはきちんと受け入れなくては、ね。
すぐには無理かもしれませんが、いつか嘆き悲しむことから卒業しましょう。
そして、死んでしまった子は、死んでしまったなりの愛し方をしてあげましょう。
死んだから終わり、ではないよ^^