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被害妄想でしょうか?

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有り難し有り難し 56

私は人と話すのに緊張してしまう方です。かなり慣れないと普通に話せません。

職場でも初対面の人とも最初は向こうから話しかけてくれたりで何とか話しますが、私があまり上手く話せない為だんだん話さなくなってしまいます。

声もかけられなくなったり、挨拶のみで終わりになります。私は嫌われてるのかも、影で悪口を言われているかも、とか思ってしまいます。私がいたら迷惑なんじゃないかとか、思ってしまいます、
気にしすぎかもしれませんが、こう思わなくなるにはどうしたらいいでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

インサイドの自分と話してるんです。アウトサイドを相手に。

わわわ、わわたしもっ、
むむむっ、昔は、ひっひっひっひ、人とっ、人っ、一青窈…ひとと、よう、人と良、ははは話せませんでした。ききき金鳥、緊張してしまうんですよね。
あわわ、ちょっと、トイレ行ってきます。ひー。
ふいー、戻りました。(._.)スッキリ
(-。-)y-゜゜゜それって、要は自分の想念にビビり過ぎているんです。
相手にビビっているって思っているでしょう。
違うんです。
自分の内なる思いにビビってるんです。インサイドのマイワールドが妄想が膨らんで、アリを恐竜のように見ているだけです。実際のアウトサイドの相手は、大きくても小さくても当の本人です。
恋する少年少女がガチガチになるのは相手に特別な感情を抱いているからではないでしょうか。それは実は相手ではなく自分の内なるイメージ上の幻想の相手を相手にしているからガチガチになるのです。
それを確かめる効果的な方法として動物園で動物と目を見ながら、話しかけてみてください。
この目的は何かと言いますと、
タイトルに示してある通りです。
人間でも動物でも、相手と接する時に自分の想念の側を相手にしなくなるようにするのです。
そして、自分の想念を優先しないことです。
それ以上のものを相手に観ない。そのものを見る。(観るは想念、見るは肉眼。)
「ちゃんと、相手(事実)を優先して話をする」ということです。
緊張って、自分の心うちで起こっている事の方を優先選択して、相手を見ていないのです。
たとえば、相手に対して特別な気持ちがある相手だとしたらますます緊張して何も話せないと思います。
自分は自分のやることしかできません。
それ以上の特別な事をやろうとするとキャパオーバーでいっぱいいっぱいになります。
最小限の自分のそのままを、そのままやっている時って、何の力も入っていませんから緊張も何もしません。このコツを会得してみてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

これでイイのじゃ

ワシはhasunohaにはびこる九相坊主・マスターヨーガじゃ。フォースと共にあらんことを。
若きウバイ(女性仏教徒)よ、よくよく心得よ。
>失いたくない全てのものを解放するように自分を鍛えるんじゃ

かつてお釈迦さまがバラモン市に托鉢に行った時のことじゃ。お釈迦さまが来るということを聞いて市長はこのようなお触れを出しておった。「今度来るブッダって奴は異教徒であるによって、関わった者は厳罰」。オー・マイ・ブッダ!お釈迦さまは街ぐるみで陰口をたたかれ、迷惑がられてしまったのじゃ。

お釈迦さまでさえ誰とでも仲良くできるわけではないのじゃ。西洋の全知全能の神であっても陰口言われるのじゃ。ぶっちゃけ陰口言われない人間の方がキモいのじゃ。人間、陰口言われてナンボのモンじゃ。YouTubeでどんなに高評価な動画であっても、必ず数割は低評価があるモンじゃ。ピコ太郎氏のPPAPでも7万5千低評価じゃ。そんなモンじゃ。I have a 高評価、I have a 低評価、dumdum、umm、アッポーペ〜ンじゃ。んなモン知るかってんじゃ。そんなモンじゃ。どんな人であっても、上手くやっていける人とはやっていけ、上手くいかない人とは上手くいかないのじゃ。

若きウバイよ、思い切って思い切るのじゃ。こんな九相坊主のクソみたいな口調でも、有り難しして頂ける人には頂けるのじゃ。そんなモンじゃ。自己の印象管理をダークサイドな墜とすでないぞ。自分がどうか、ではないのじゃ。ただ目の前に相手がいて、話をするだけなのじゃ。それだけじゃ。
>違う、やってみるではだめじゃ。やるか、さもなければやらないかじゃ。”トライ”なんて存在しない。

そうしたら、その方がむしろ楽じゃと気付くであろう。ワシも初めてこのネタで回答書いた時は怒られるかと心配したが、意外とそんなこと全くなくて目ん玉飛び出そうになったものじゃ。案外、シリアスになった方がギクシャクし、思い切った方が大丈夫なモンじゃぞ。フォースと共にあらんことを。

参考 http://www.eigadeeigo.com/2222.html

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

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