人に行動や考えの変化を求めてしまう
自分自身がどうあったらいいのか
この年になってもいろいろと考えている毎日です。
もともと本を読んだり研修を受けにいったりすることに関心があって
そういったことをしながら毎日自らが学ぶ姿勢を忘れないようにしています。
日頃より仏教の分野とか
心理学や哲学の分野やら
まずまずしっくりくるものがあったら
ともかく自分自身が行動に移してみようとしています。
しかしながらまだまだだと感じていますが
少しずつでも進めていけたらと思っています。
一方で、知りえた学びを自分だけではなく人に求めてしまうところもあります。
それを押しつけがましいとか、求めてはいけないと思いながらも、
なんで、やらないんだよ、といら立ちを感じてしまうことがあります。
もちろん全ての人に求めているわけではありません。
職場などでかなり横暴な態度(と自分が思っている)人に対してだけですが
それでも自分に思いに不快感みたいなものを感じてしまいます。
そんな自分にモヤモヤしています。
何かご意見ご助言を頂けたら幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏教は内観道
仏教は内観道です。
どこまでもこの「私」が問われる教えです。苦しみの原因を私の内に観ていきます。
仏教以外の教えを外道と呼びます。苦しみの原因を私の外に観ていきます。
他の人に何かを求めた時点でそれは仏教の本来から少し外れているかもしれません。
その求め方が「あなたが変われば私の苦が解決」と考えるか、「あなたも私もともに救われなければならない」という視点でみているかでまた違うかもしれませんが…
いずれにしても仏教は処世術ではありません。自分に都合のよい部分の教えをとってつけて自分が優れたものになる類ではありません。
この私のメッキが剥がされて内側がさらけ出される教えです。
内観により自らを「良し」とする立場が捨てられるならば、どんな人とも「共に」の視点が生まれるはずです。
学びの視点を変えてみましょう。
さっそく実習
こんにちは。先日の「年上の人」の続きでしょうか。まさしく、「さっそく実習」という感じですね。
>「私の言うことが正しい」というニュアンスでものをいう
貴方は色々と勉強して来られたので、「正しいこと」を周りよりもご存知なのでしょう。まぁ、誰もが「自分にとって、これは正しい」と思うから話すのであって、「自分では判断つかないが、本にはこう書いてあった」というニュアンスでは、積極的に話せませんよね。
それは、たとえ内容が仏教についてであっても、です。私も「推測します」「思います」「聞いております」「感じます」という言葉は、結構細心の注意を払って使っています。
そもそもお経って、「如是我聞」…私はこのように聞いております、という一歩下がった姿なのですよ。私自身がどんな「素晴らしい法話」を思いついた・経験したとしても、まず100%先人の後追い・コピー・使いふるしです。でも、その使い方=その法話をどんな環境に置くか=は現代の問題・私の問題。「内容よりも話し方」と言われるのは、これだと思います。
ですので、もう一度書かせていただきます。
「周りが(仏教のことを)分かってくれたら相手のおかげ。伝わらないなら自分(の伝え方)が悪い」。「俺が分かったんだからお前も」というのであれば、前回の相談で遡上に上がった「年長者」そのものですよね。