くよくよ悩んでしまう。
タイトルの通りくよくよ悩んでしまう事で悩んでおります。
最近の例では、
1ある合格率が高く簡単な資格試験を受験し自己採点の結果、合格していることは確実であるにも関わらず受験番号を書き忘れたのではないか、マークミスしたのではないか、誰かが私の解答用紙を捨てたのではないかと夜も眠れず電話で母に話して泣いてしまいました。合格発表まで涙と体の震えが止まりませんでした。
2友人にメッセージカードをお渡ししたのですが、渡す前に中身を確認しなかったことから中身を入れ間違ったのではないか、メッセージカードに誰かがイタズラで私の誹謗中傷を書いたのではないかなどと考え仕事に集中できませんでした。
3お付き合いしている方がいるのですが、ある日突然連絡が取れなくなるのではないか、私の知らない所で身辺調査などして何かしらの落ち度を理由に別れられるのではないか、誰かが私を誹謗中傷するのを聞くのではないかなどと考えて折角の楽しいお付き合いなのに気持ちが沈みます。
このような思考回路になったのは子供時代、学校で嫌がらせを受け、カバンをトイレに捨てられたり、本を破かれたり、先生に事実無根の告げ口をされたり、提出した課題の名前を消されたことが原因かも知れません。誰がやったか分からず常に誰かが私の足を引っ張ろうとしている気がするのです。
また、それ以前の幼稚園時代より死んだらどうなるのかと、いつも漠然と心配していましたので心配症は元々の性格かも知れません。
友人に婉曲な表現で相談したことはありますが、そんな心配は馬鹿馬鹿しいし心配しても仕方ない、なるようになると考えて今を楽しめばいいと言います。本当にその通りだと思います。
この馬鹿馬鹿しいようで私にとっては深刻な悩みを少しでも軽減する方法はないでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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心配してもしなくても結果は同じ
こんにちは。
小さい頃ひどい目にあったのですね。よくがまんしました。
いろいろ心配になっちゃうんですね。わかります。私もそうでした(笑)
私にも、そのような心配ばかりしている時がありましたが、あるとき気がついた事がありました。
それは「心配してもしなくても結果は同じなんだ」って事です。
例えば、ボーリングの球を投げた時の事を想像して下さい。球がどう動き、ボーリングのピンがいくつ倒れるかは、実は投げた瞬間に決まっています。それを、投げてから、「ああもっと力を込めて投げればよかった」とか「もっと右から投げれば良かった」などと思っても、思わなくても、倒れるピンの数は同じです。それだったら、考えない方が良いです。次にどう投げるか考えていた方が得策です。
あなたも、くよくよする事が起こったら「もう球は投げられた。なるようにしかならないんだ」とずっしり構えて結果を待ちましょう。子供のように変なことをする人は大人の世界にはめったにいません。万が一おかしな結果が発生したら、その時に初めてどうするか考えるようにすればいいだけの事です。
質問者からのお礼
ご回答いただきありがとうございます。今の私は既に投げたボーリングの球が思ったように進まないのを見て、くよくよ悩んでいるのですね。本当にその通りです。ある程度、開き直って過去を心配するより現在を最善のものにします。ありがとうございました。