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娘に虐待しそうな自分が怖いです(その1)

回答数回答 2
有り難し有り難し 8

※長文のため2回に分けて投稿します。
長文申し訳ありません

私は暴力的・支配的な母親に育てられました。
幼少時は母の気に障ることをしたら殴られていました。覚えている限りでは、
・習い事をしている態度が悪い(私は自覚なし)
・病気の時、粉薬が喉に引っかかり吐いてしまった→熱があるのに殴られ、散乱した粉薬の上に倒れた
・運動会の徒競走中、吐いてしまい最後まで走れなかったことに怒られた
・なぜ殴られたのかは覚えていないが、殴られて鼻血を出して意識朦朧としている私にヒステリックに叫んでいる
・幼少時は「お母さん、今怒ってるん?」と常に母親の顔色をうかがっていた
といった記憶が蘇ります。

また、中学生以上になると「あんたは神戸大学に行って保健師になるんやで」と言われ続け、他の道を歩みたいと伝えると「そんなこと言うなら高校・大学の授業料は出さん」と言われ、保健師以外の道は許されませんでした。

結局、高校生では成績が思うように伸びず神戸大学には入れませんでしたが、一浪して別の公立大学のに進みました。
浪人中、優しかった父が病気で亡くなりました。

大学生になり一人暮らしを始めると「やっと母から解放される」と思ったのに、相変わらず「看護師にはなるな、保健師になれ。もし看護師になるなら公立病院に就職して私とずっと一緒に暮らすんやで」と母は言い続け、勝手にマンションを買っていました。

私は「二度と母とは暮らさん」と心に決め、大学卒業と同時に結婚し、民間病院の看護師として就職しました。
母は「小さい時から習い事いっぱいさせたのに一つもモノにできんかった。何で結婚するんや!アンタと暮らそうと思ってマンション買ったのに!!」と暴言を吐きながらも結婚を許してくれました。

※その2へ続きます


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

母へは「ゆるし」を与え 自分へは「ゆるめ」を与える

※その2の方にも、詳しく回答しておきました。タイトル入力直後、すぐにアップされてしまいました。失礼いたしました。

世間に存在するどんな凶悪な母親でも、鬼が住み着いた母親でも、最終的に子供の側ができる最高の防御は「赦す」ことです。
結局は、カーちゃんがカーちゃんのヤマアリタニアリの人生観の中での最終的な人格で独自にやってきたことなのです。
ケルナグール&ヒステリックかーちゃん。地上最凶ですね。
ここは一つポジティブに考えましょう。
『アタシは地上最凶の母に仕込まれた、あらゆる困難にも耐えうるタフな精神を持った女。』
今後どんな困難も「アレに比べれば全然マシ」になります。
私も、ウチの両親はいまだに凶暴です。(笑) 日々イイ修行になっています。
カーちゃんの過去を知れば「え!そんなことがあったの?そんな生き方してきたの?だから、私にそんなことするようになったワケね」という所に行きつくものです。
だから私達子供の側は、いつまでも被害者意識に浸っていてはいけない。
それは、自分を永遠に苦しめることにしかならないから。
・もう終わっているのに
・過去は過ぎたのに
・無かったことにはならないのに
・母と私は別人格なのに
・私はわたしで生きるべきなのに
いくら思い返しても、どのみち幸せにはなれないからです。
「じゃぁ、どうすればいい?」

前を向いて歩くのみです。

母親の非は赦す。
感情的に許せない気持ちも起こるでしょうから「許す」のではなく「赦す」。
容赦、恩赦、特赦の 赦。 神仏の赦しです。

過去をとやかく言ってもあなたの今のフロントガラスがくもるだけ。
そんな苦しい生き方をこれ以上私はしてほしくありません。

実は赦すとは、自分の執着を緩めることなのです。
相手を呪わしくすら思う。
それは実は、自分の思いだからなのです。
「母親の愚かさも愛しなさい」
「母親も不完全であると肯定しなさい」
「私も母も愛されたいのだと知りなさい」
そしてその愛を母は得られなかった哀しみの人であるということを知って、気遣ってあげなさい。
貴女は、幸いにあなたを愛してくれる人に出会えた。
その気持ちを打ち明けることです。
そして、彼に愛を求めることです。(仕事の忙しくない時に)
あなたが自らの体の中に愛を満たすことで、あなたが母に愛を伝えることもできます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

その2に回答しますね。

こんばんは。

聴かせてくれてありがとうございます。

参考になるかは自信ありませんが、
その2の方に答えさせていただきますね。

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おきもち

hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。

「許す」ことは難しくても、「赦す」ことならできそうです。
私の変わりに神様仏様が赦してくださったと思えば少し楽になりました。

たしかに、大人になって社会に出て様々な人と関わってきましたが、小さい時のように顔色をうかがってビクビクすることは無いように思います。
もう昔の私ではないから、過去のようにはならないですよね。

夫は等身大の私を見てくれます。
理想が無いことも無いようですが、私にそれを押し付けることはありません。
ありのままの私を愛してくれる夫と二人で娘のありのままを見つめていきたいと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ