娘の死を乗り越えるために
昨年11月に生後1ヶ月の娘を亡くしました。
お宮参りのために実家に帰省中、親子3人で川の字になって就寝。
朝起きた時には、マットレスから落ちて頭上にまとめてあった荷物で窒息し亡くなってしまっていました。
何故気付いてあげられなかったのか、何故頭上に荷物をまとめてしまっていたのか、色々なことを思い後悔ばかりの毎日でしたが、日に日に少しずつ心が落ち着き(自分の気持ちに蓋をしているだけかもしれませんが…)、死後1ヶ月経った頃から娘をお腹に授かってから亡くなる前日までの夢のような日々を思い出し、娘に兄弟を作ってあげたい、娘にしてあげられなかったことを次の子にしてあげたい、早くまたこの腕で自分の子を抱っこしたいと思うようにもなりました。
しかし、まだ1ヶ月しか経っていないのに次の子を…と考えてもいいものか悩んでいます。
次の子の前にもっと娘のことを思ってあげた方がいいのはもちろん分かっているのですが、次の子を授かることができたらまた違った気持ちでちゃんと娘の死と向き合うことが出来るんじゃないかと思うと早く早くと焦りが前に出てしまいます。
娘の死を乗り越えるために次の子を授かりたいと思うことは間違っているのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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間違ってませんよ
本当に、本当に辛い想いをされましたね。
想像して胸が痛みます。苦しかったでしょう。
それでも、ひたむきに前を向く姿に、少し背中を押せるようなことができればと思い、言葉を寄せさせて頂きます。
お釈迦さまの話で、子どもを亡くした母親の話があります。
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あるとき、幼い男の子を亡くしたばかりのキサー・ゴータミーという名の女性が、遺体を抱えたまま、「薬を下さい、この子を生き返らせる薬を下さい」と狂ったように町中を歩き回っておりました。
お釈迦さまは彼女に「ケシの粒を持ってきなさい。ただし、いまだかつて死人を出したことのない家から」
ゴータミーは各家を尋ねて探し回りましたが、どの家も誰かを亡くしており、得ることが出来ませんでした。ですが、彼女は子を亡くした悲しみを乗り越え、それを悟ったお釈迦さまは彼女に法を説き、ゴータミーはお釈迦さまの弟子になりました。
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彼女は家を周りながら色々なことを感じ学びました。
「私だけが愛する人を亡くして辛いわけではないこと」
「人生が無常ということ」「今生きているわたし」
そして何より「愛する我が子は亡くなっても愛する我が子であること」。
悲しい事実はあっても、我が子の価値は何があろうと我が子のまま、尊いんです。
それはリコピンさんに新しい子どもができようとも同じです。
ですから、何も間違ってはいませんよ。
亡くなった我が子の命、いつか芽生える我が子の命、どちらも尊い。
ですから、たくさん手を合わせましょう。
可能なら知っているお経を唱えてあげましょう。
どちらの尊い存在も、仏さまの世界にいらっしゃるのですから。