hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

誰も信じられない

回答数回答 1
有り難し有り難し 12

誰の事も信じられません

みんな敵に感じます


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

信とは何か

どうしたのでしょう?一体何があったのでしょうか。よければお聞かせください。ホントに聞く事しかできませんが。
どんな思いをどんな言葉でつづってもよいのですよ。もちろん言葉にする事にすら絶望するような内容をつぶやきや嘆きや叫びとして表現してもかまわないのですが、今回はどうなされたのでしょうねえ…。心配しております。

さて、「信じる」とは本来は「本当に正しいもの・真実・真理」に向けられるもので、そうではないものに向けてしまうと「裏切られた!」なんてことになります。

ですからこの世の中、ましてや人間にそれを向けて「あなたのことを信じてる」としても中々その信は全うされません…理由は言わずもがなですが「人間だもの」ってところでしょう。

しかし社会が「おそらくこうしてくれる、こういう可能性が高い」という「信用・信頼」で成り立っているのも事実です。
また人間生きているならば誰でも「人生とはこういうものだ」とか「私はこれが大切だと思う」なんていうような「信念」をもったりするものです。

でもそれらの「信」はどれも不完全なものです。縁によってブレブレなのですからしょうがありません。
仏教的に言うならば大切なのは「信心」です。
それはやはり「真理に対して向けられるもの」あるいは「真理から向けられるもの」でありますが、この私について言うならば、「私の中には信じるに足りるものなど何もないという信」です。

「こうあるべき」「こうでなければならない」「こうに違いない」という信はそれが思い通りにならない現実で打ちのめされていきます。
しかし縁によっては「どうとでもなりうる」という信があるならば何が起こっても「そういうこともある」と受け入れていけます。

これは相手についても同じことです。だからといって相手を「こいつはいつ裏切るかもわからない信じるに足りない敵だ」と見なす在り方は孤立を深めるばかりです。
ならば相手にかけるのは「信」ではなく「願い」でしょう。「こうしてほしいなあ」「こうであったら嬉しいなあ」という願い。
そうであるならば願いを叶えてくれるならば「有難う」となります。それは私の願いであってそうなることが当然ではないのですから。
そして叶わなくとも「裏切られた」とはなりません。もともと「私の願い」ですから。

そうして相手も私も共に本当のものを信じましょうというのが「信仰」です。

{{count}}
有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
このお坊さんを応援する

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ