これからどう生きるべきか、見えなくなりました。
私は以前から彼女が欲しいと言っていました。
実際に行動しなければ彼女はできないと言われ、それから私は目標の為にとにかく実践することを心がけてきました。
女の子の服を褒めました。その子がその服を着てくることは二度とありませんでした。
何度か旅行に誘いました。声をかけられる程度に仲のいい10人強全員に全て断られました。
私は先日までとある大会に出場する部活に所属していました。
私には目標があったので、その為に賛同者を集め、先輩に挑戦の許可を得、必要な勉強をしました。
学んだことを資料にまとめ、必要な物の販路を新たに開拓しました。
人出が足りないと思ったので友人を誘いました。
行く先々の寺社仏閣で神頼みをし、自腹でお札も買って手を合わせました。
半年を費やした準備の末、仲間に「実は乗り気ではなかった」と言われ、私の挑戦はなかったことになりました。私は部を去りました。
目標達成の為には行動するべきというのはよく分かっています。
しかし私は努力することで成功どころか、自分は疎まれていると知りました。
人生の成功には努力が不可欠ですが、私は努力しても沼に深く沈んでいくだけです。ならば人生うまくいく訳がないではないかと、次第に人生そのものに希望を見出せなくなりました。
今、人生そのものに対する絶望と、人生を諦めたくないという気持ちで潰れそうです。
私はこの状況を嘆けば、本当に努力したのか?足りないんじゃないか?と責められます。
私は努力しても結果を残せないどころか、努力したことを認めてさえ貰えないのかと、とても悲しい気持ちになります。
同時に、努力は報われるものと信じて疑わず、実際に報われている人々にとても嫉妬してしまいます。
私はこれからどうするべきか、全く見えません。
努力しなければうまく行かないが、努力しても上手くいかない。
何度も死のうと思いましたが、人生を諦めたくないという気持ちから思いとどまりました。しかし私は奇跡的に運良く良い事が起こることを期待して惰性で生きていこうとしています。
これで良いはずがないというのは分かりますが、ならばどうすればいいのか、分かりません。私はこれからどう生きていくべきでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私は禅僧です。坐禅をすると足が痺れます。素人さんの中には、坐禅をして足が痺れるのは修行が足りないからで、恥ずかしいことだと思う人が多いのですが、実際は違うんですよ。足が痺れるのは、真面目に坐ったから痺れているんです。手を抜いてあぐらかいて座っていたら足は痺れません。痺れていいんです。
これは私が大学生の時に教わったことです。足が痺れるのは嫌ですけど、そう言われると嫌なりにもうちょっと頑張ってみようかなと思ったものです。
たこさんが苦しいのも、頑張って生きているからです。それは悪いことではなく、素晴らしいことなんですよ。ただ、頑張り過ぎればそれだけ苦しさも大きくなります。そこは『バランス』です。
さて、10代後半と社会に出てからの人間関係はまるっきり逆転します。社会に出てから「乗り気じゃなかったからやめる」なんて言えば一瞬で信用を失い、誰からも相手にされません。女性にも生活力のある人がモテるようになります。それはそれで面白くないことがありますが、そういう環境まで進めたら気分がかなり変わると思いますよ。
最後に、成功するためには道筋を理解する必要があります。水を流すのにU字溝で道筋を作ってやれば真っ直ぐ遠くまで流れます。何も無い平らな所では、どんなに頑張っても大して流れません。
『努力すれば報われる』というのは、バブルというU字溝が日本全体に敷き詰められていたころの話で、あのころは何でも作れば作っただけ売れましたし、辛抱すればするだけ出世していました。そんな時代は20年前に終わったことに、大人でもたくさんの人が気付いていないんです。
じゃあどうするか?まずは第一線で活躍している人達を見付け、その人達について行って学ぶのが一番です。社員が活き活き働いている就職先を探しましょう。あと、本田宗一郎のようなカリスマ経営者の本を読むと元気が出ますよ。本屋さんのビジネス書コーナーにあります。
せんだみつおさんの芸名
偉そうに分かったことが言える人間ではありません。「自分のことを棚に上げて」お話します。
せんだみつおさんというタレントさんがおいでになります。芸名の「せん」は1000を、「みつ」は3をそれぞれ表します。うまくいくのは1000分の3という格言が芸名の由来です。芸能界で名を成して生き残ることができるのは千人に三人ほど(つまり皆無に近いが皆無でない)を芸名になさっています。起業についても「せんみつ」といわれることもあります。新しい個人資本のお店ができてもいつの間にかなくなることはよくあります。上場企業の正規職員と同等かそれ以上の収入を継続的に得続ける起業家は非常に少ないでしょう。これらのことから人生は思い通りにいかないのが当たり前だと知らされます。
坊さんの私は、教科書的につい「人生は思い通りにいかない」といってしまいがちです。しかし、思い通りにいった方々もおいでです。たとえばお釈迦様です。お釈迦さまは出家してお覚りを開こうとなさり、その通り覚者となられました。ただ、最初から一直線に覚りに向かわれたのではありません。覚りを開いているとされる多くの修行者に教えを乞いましたが、本当に覚りを開いた人はいませんでした。結果としてご自身で覚りを開かれたのですが、修行者たちから教えを受けたことが無意味だったのではなく、「創造は模倣より始まった」面も多々あったようです。
浄土真宗の開祖、親鸞聖人の場合も最初は試行錯誤なさり、その後、法然聖人に出あって指導を受け、晩年になられてから独自の境地を開いていかれました。親鸞聖人の場合は明確に「創造は模倣より始まる」が当てはまります。
うまくいかないならうまくいっているとされる方、「これ」という方から学び、まずは模倣してみては如何でしょう。野口悠紀雄さんは『超発想法』という本のなかで、盛んにこのことを勧めておられます。せんだみつおさんは他の997人にないものを持っておいでになるはずです。
豪速球だけの努力では打たれる
豪速球があるピッチャーでも、ど真ん中だけの勝負ばかりでは打たれますよね。
あなたは、チームをまとめるテクニックについて勉強不足で、その部分ではど真ん中豪速球だけの努力をしていたのでは。
だとしたら、単純に「努力しても無駄」という話ではなかったのです。
何事にもテクニックとか工夫があります。
工夫すればたいしたエネルギーを費やさなくてもうまくいく場合もあります。
リーダーシップは、訓練で向上できる技術だそうです。
リーダーシップという技術には、目標達成機能と、集団維持機能(コミュニケーションをとってメンバーの良好な関係を維持する)の2つの機能があるそうです。
あなたは、目標達成にばかり気をとられて、集団維持機能でミスっただけです。
努力の仕方がおかしかっただけであり、努力自体が無駄なのではありません。
若いときにそのような失敗経験をできたのは、羨ましいくらいです。
将来役にたつ経験になるはずです。
ただし、自分の肉体でさえ、走ってて転ぶなど、完全にコントロールできません。まして、他人を思いどおり動かせないのは自然なこと。
努力しても失敗することもあるのが人生です。
質問者からのお礼
大慈様、藤岡様、ありがとうございました。
振り返ってみれば、私はただ人伝やネットの怪しい記事なども鵜呑みにして努力だ何だと言っていました。
これだといえる師を探すところから始めてみたいと思います。ありがとうございました。