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家族が辛いです

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同居を始めた15年前から適応障害の症状が出始め、4年前から心療内科の治療を受けています。原因は舅への嫌悪感、夫への不信感です。
家族(夫、舅、姑、子ども2人)、実家には話していません。

3年前に別居を切り出しましたが夫・舅姑から「ばかばかしい」「体裁が悪い」「家を出るなら子供(孫)を置いてあんただけ出たらええ」と一蹴されました。

その後、少しでも気持ちを切り替えようという気持ちと経済的なこともありパート勤めを始めました。しかし次第に仕事と家事の両立ができなくなり舅・姑から注意をされ仕事を辞める。家にいると症状が出るーの繰り返しで年々ひどくなっています。

同居は嫌だったのに、拒否することができなかった後悔と病状を誰にも相談できないことが苦しいです。
死ねばこの苦しさから解放されるのか、と思います。
でも、子供たちのことを考えると今は死ねないと思うのです。

私の実父母は家庭に不向きな人でした。そのせいで私は実父の弟の養女となり、養父は私を連れ子して結婚しました。いい思い出はない子ども時代でした。

主治医からは環境を変えない限りよくならないと言われています。
家族の何をどう変えたらいいのかわかりません。家族は辛いものなのですか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

パート等に無理があるなら別の形で家以外の居場所を

お辛いでしょう。私の家はお婆ちゃんがきつい性格で、母がおとなしく、父が男尊女卑の典型みたいでしたから、母は辛かったと思います。

さて、カウンセリングを受けたら、というお答えも考えましたが、心療内科で診察を受けておられるのでしたら、そうしたことは既に考慮または実行なさっているものと思います。

お子さんがおいでになり家から行くというのはお勧めできない面もありますし、別居も難しいのですね。

そこで抜本的な解決策ではないのですが、仕事という責任のない形で外に居場所をお作りになっては如何でしょう。趣味のサークルやあまり責任の重くないボランティア活動でしたら、出席可能なときだけ出ても他者に迷惑はかからないでしょう。とにかく、カルト系宗教その他の危険な団体とは無縁の安全な逃げ場を探してください。人間関係が苦手でしたら、野菜作りなどもよいと思います。これだと実益にもなり、ある程度市民権のありよい息抜きになるはずです。

もちろんご法話を聞くのもよいです。近くに信頼できるお寺があればそこに、なければyoutubeで法話が聞けますし、読み物(ブログ、ウェブサイト)を提供しているお寺はたくさんあります。これらも救いになるはずです。

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個別相談可能
私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

❝家学❞反応 を 良い反応に変える「縁」

日本の結婚の多くは、嫁ぐという不思議なスタイルです。
女性は長年慣れ親しんだ自分の家でない所の家と関わっていく訳ですから、価値観、生活様式が異なった所に嫁げば当然ストレス、休まる空間が無い、とても苦しいことですよね。

同居するということは、個々の人間と人間との❝家学反応❞が生じるのです。
実はあなたにとって苦しいでしょうが、相手にとっても、慣れ親しんだ人でない人が入り込むことで、どこかしら気づかい、気疲れも発生してくるものなのです。

今は、あなたにとって悪い反応が今出ていてる。でも、ちょっとした縁を加えれば酸性からアルカリ性に変わるように、状況を十分に変えられます。

その為には、まず、あなたがどこかで相手の家のルールを変えてもらいたいと思ってしまっているところを無くすことです。
その酸度が強いと、環境はよくなりません。
「求めない、変えようとしない、自分を押し付けない」
一番イイのは、自分をヨイ意味で、無くすること=相手の家のルールが愚かしい・無駄・意味不明な事でも、自分を差し挟まないこと、なのです。
「家族の何をどう変える?」ではなく、自分のあらかじめのルールを設定しないことです。
スマホやWi-Fi、テレビの受診もあらかじめの設定があれば、受信しません。
相手の設定でなく、自分のあらかじめ設定を変えてみましょう。
もしくは、あなたが環境に適応するためには、個人部屋を作ってもらって、そこを拠点にさせてもらうい。そこから一歩でも外に出れば、自分のルールを適用させない。
仕事だと思えばよいのです。
思い切って、相手の家庭の家族会議で伝えましょう。
自分を受け止めてもらえないことも苦しみの一つであると思います。
そして、それを伝えた後、病を理由に、こまめに実家に帰ることです。
お互い、時々いない方が本当は楽なのです。
「帰ってきてほしい」と思われるほどになることです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

了教寺 藤岡様 ご回答ありがとうございます。今まで「逃げ場を探す」ことなど考えたこともなかったことに初めて気が付きました。また逃げることは許されないことととかたくなに信じていた自分にも気づきました。子供のころから”居場所のない”生き方をしてきたからでしょうか。逃げ場という居場所を作ってもいいのかもしれない、と思いました。

安穏寺 丹下様 ご回答ありがとうございます。「求めない、変えようとしない、自分を押し付けない」お言葉にいろいろと考えさせられます。相手に求めない、自分に求めない、それができるようになるかはわかりません。でもやってみようという気持ちにはなりました。
今までうつうつした気持ちで暮らしていましたが、少し心が軽くなったような気がします。このサイトに巡り合えた縁に感謝いたします。ありがとうございました。

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