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生きていますか

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人間って本当に生きているのでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それは

生きているでしょうねえ

だから「人間って本当に生きているのでしょうか?」という問いも生まれてくるのでしょうね。

この問いが私の力で産み落としたものでない様に、私(ひかりさん)も、生まれて、そして今生かされているのでしょう。

ご質問の対象が私(あなた)でなく、「人間」を指していますので、「人間」の中に、あるいは「人間」すべてが

この人は生きていると言えるのか?

この人は「本当に」生きていると言えるのか?

この人が生きていてよいのか?

そんな生き方で「本当に生きている」と言えるのか?

と、言いたくなるような思いをお感じでしょうか?

まあいずれにしろ、生きているでしょうね。

「本当に生きる」生があるなら「嘘に生きる」生ということもあろうかと考えてみましたが、どうも私としては、生きているということが「本当」ということを内包しているのではないかと感じました。
嘘に生きる(と思う)生き方でさえ「リアル」な生の中にある。

言葉遊びが過ぎた感もありますが、まあ、うん、生きるという事は「本当」で「real」で「true」でしかないと思います。

逆に言えば、死んだ人間もいて、死もrealであることに変わりないですが

今、生きている人はみな「本当に生きている」でしょう。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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おそらくです

拝読させて頂きました。そうですね、生きているのかもしれませんし、死んでいるのかもしれません。今があるようでないかもしれません。
己れの自覚があって周りを認識しているようですが、頬をつねって痛いですからおそらく今はあるのでしょう。
その様に不安定な中で今自分がいる様に確認できますね。
そう考えると般若心経の
色即是空空即是色の世界ですね。
世の中自分も含めて実は単体では実態はないかもしれません。相互に依存しあって今あるように感じるのですから。
それでも自分は生きている、生きていきたいと思うのが己れの本性と思いますね。自分には何より大切なものですから。おそらく。

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おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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谷川俊太郎さんの「生きる」を

こんばんは

 谷川俊太郎さんの「生きる」という詩があります。

 この詩を、お葬式の弔辞の折に、故人のお孫さん(小学生)が、すばらしい朗読で読んでくださり、とても感動しました。よい詩です。

 是非じっくり読んでみて下さい。

 今も読み返し、じんわり温かい気持ちになりました。

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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「幻の如し」

ひかり様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

生きているのでしょうか・・

そう疑問に思われるように、正直、「幻の如し」なる存在です。

でも、あくまでも「如し」あって、「幻」ではありません。そこは注意が必要です。

自分という存在は、ただ自分独りにより存在しているわけではなく、色々な他に依存して成り立っているが故で、何が自分と探そうとしても実体的に「これである」と言えるものはないけれども、五蘊、色(物質・肉体)、受(感覚・感受作用)、想(表象・概念作用)、行(意思・意志作用)、識(意識・認識作用)や、他の人、動物、植物、空気、地球など、色々なモノ・コト、イトナミに依って存在できているという意味での「幻の如し」となります。

もう少し述べますと、実体としては「無い」し、実体として「有る」とも言えないというものとなります。

しかし、依存して「有る」と言えるのであれば、何も「無い」というわけでもないということになります。

このあたりの理解は非常に難しいのですが、本当に「生きているのかどうか」を知るためには必要なことになって参ります。

そして、今までのように存在できるために依存していたものが無くなっていくと、当然に今までのようには存在ができなくなっていってしまうものでもあります。

「生きている」というのは、誠に他に依ることでの有り難しであり、稀有なことなのであります。

もう一つ、「死」は、では「無」なのか。それも違います。我々が考えているレベルの「死」というものは、ただ「肉体の依存関係の崩壊」程度のことであって、因縁により今ある粗い肉体に左右されることのない微細な意識(心)の問題を死後においても扱うことになります。

存続していく意識がある以上は、まあ、微細な意識のレベルでは、もちろん、色々な依存関係の下で「生きている」と言えるのであります。

いずれにしても、死後も存続していくことになる意識を、より良くに変容させて、悟り・涅槃へと向かうための流れとするための教えが仏教となります。

是非、仏教について更に関心を高く学ばれて頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

ご回答下さったお坊様の皆様へ

ご回答ありがとうございます。
お一人お一人にお答えを書かせていただいたのですが、ここのところ離人感(脳と身体が離れている感じ。脳がボヤけている感じ…等)が強く、なかなか纏まりません。
読みにくい文章、何をお伝えしたいのかわからない内容、etc..になってしまい、いつまで経っても書き上げることが出来ません。

せっかくご丁寧にご回答を下さったのに、本当に申し訳ありません。
こんな状態でご質問したことが間違いでした。反省しております。


私はこんなこと(他幾つか)を考えていました。
人間は生きているのではなく、『(実体のない)阿弥陀の夢(で映像化されている)』


大変申し訳ありませんが、これをもってお礼とさせていただきます(_ _)
本当にごめんなさい!



間違い 阿弥陀の夢
正しい 阿弥陀仏の夢

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ