信仰心について
初めての投稿で少し雑かもしれませんが、すみません。
相談したいことは信仰についてです。私は、仏教を信仰してるつもりなのですが、そこで悩みが出ました。それは、信仰をどこまで貫いていけるか?と言うことです。例えば、完治が難しい難病にかかってしまったとか、交通事故の被害者や加害者になってしまったとか そういった時に 仏教への信仰を貫いていけるか?と言う悩みを抱えています。どうしたら良いでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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信心の方向
はじめまして、これからよろしくお願いします。いつでもご質問なさってください。
さて、誠に熱心に仏教を信仰されているとのこと、誠に有り難きことに存じます。
信仰心、つまりは信心について私の所属する浄土真宗では一般の考えとは信心の方向が逆であるように聞かせていただいております。
つまりは
私が仏を信じる のではなく 仏が私を信じる
という方向です。親鸞聖人はこれを「他力の信心」「如来よりたまわりたる信心」と表現されます。
つまり「私の信心」ではないわけです。考えてみますと「私の信心」と申しますのは恥ずかしく痛ましい事に縁によってブレブレな心です。
病気になったり、事故に会ったり、都合が悪い事が起こると、「あんなに信じていたのに!」という具合に手のひらを返してしまう弱さがあります。
また、この仏様を信仰しようと決め込んでも、いざ病気になり、どこどこの仏様の仏像に触れると病気が治ったらしいぞ!あそこの神社の祈祷がいいらしいぞ!とまことしやかに聞くと、「どれどれ」とそちらが気になってくるものでございます。
どこまでいっても「私の信心」は「我がはからいの信心」、つまりは「我が思いのご都合信心」なところがあるのです。
そんな現状でございますので以前は私も私の信仰心がぶれることを恐れていました。
しかし、今では「ぶれぶれな私をこそお救いくださる」とお聞かせいただいたことでぶれては感謝し、ぶれてはまた深く頷かせていただいております。私には「信心などないという信心」、これが私の信仰心です。
全てを救うという阿弥陀仏という仏様に対し、こうしたらもっと救ってくれるのでは?、こういう私ではダメなのでは?と我がはからいをさしむけるとそこから漏れて勝手に私は沈んでいきます。
しかしながら「あなたを救うぞ」という仏の声をそのままお聞かせいただくならば、私はそのまま救いにあずかります。仏様が私を救うぞと信じてくださっているのです。
私はその救いの声を南無阿弥陀仏とお聞かせいただくのみです。
凡夫(ただの人)である私は死ぬまで縁によってぶれる弱い存在ですので、共に仏法を聞いて喜ばせていただければ幸いです。
聞いた聞いた
いいこと聞いた
凡夫が仏になること聞いた
聞いても聞いても何ともない
何ともないのが目当てと聞いた
浅原才市
信仰心が生む最大の利益は「穏やかな心」です。
お釈迦様は「人は迷ったり悩んだときに信仰心を起こす」と申しています。「困ったときの神頼み」ですね。
しかし、僕は、「感謝」というのも信仰心の大きな源泉だと感じています。
先祖、親、そういった方々に感謝して手を合わせる・・・もしくは、なにか困難な事を乗り越えたときに神仏への感謝の念が生じる。そういったお話は良くあることですし、僕自身も、両親への感謝が大きな信仰心の芽生えでした。
さて、大きな挫折が立ちはだかったときに信仰心を保てるか・・・・
それは、もちろん保てるでしょう。むしろ、あなたの信仰心はより大きなものになるでしょう。
なぜなら、普段から信仰心のあるかたは、神仏に手を合わせたときの「心の平安」を知っているからです。
信仰心が生む最大の利益は「穏やかな心」です。
日常的にその穏やかな心を持つひとは、きっと苦境でこそ神仏に祈り、心の平安を保とうとするでしょう。
仏はあなたの心の中にいるんです。
自身の心の仏に感謝し、手を合わせる信仰を大事になさって下さい。
質問者からのお礼
回答ありがとうございました。