働くことに耐えられない。
こんにちは。
初めて質問させていただきます。
仏教では生きることそのものが苦であるという考えかと思いますが、最近私は本当にそう思います。
誰かにいじめられた、嫌なことがあった、そういうわけではありませんが、口癖のように「仕事辞めたい。死にたい」と言っております。
ただ私はそもそもの性格や言動がかなり子供っぽく、外面美人とでも言いますか、他人の前ではかなり明るく振る舞うため、周囲には「はいはい、辞めたいのね」程度にしか受け取られてはおりません。
それは一向に構わないのですが、私自身辞めたい、死んでしまいたいという気持ちが強くなります。
以前こちらで死にたいと思う心は自我の声、どんなに辛くとも生きたいと叫ぶのが命の声であると書かれていたお坊さまがいらっしゃいました。私はどちらの声もかなり強いらしく、死にたいと思いながらも生きたいと思い、とにかく休みの日は死んだように寝ることなどがよくあります。
死にたいと思う理由については、現代では働いていないと生きていけないため、働きたくない=死にたいという考えになるのだな、と自身で分析はしてみました。
私には病気の母もおり、家賃生活費は全て私が払っています。恋人もおりますが、決して高収入ではないのでもしも結婚しても仕事は辞めれないだろうと思います。
最近は暇な時間に働かずに生活する方法をネットで検索しますが、アフィリエイトやらFXやら決して楽ではなさそうな稼ぎ方ばかり。
長くなってしまいましたが、働きたくないというのはやはり甘えなのでしょうか。体力的にも精神的にも耐えれなくなりそうでこわいです。
なにかこんな自分でも生きやすくなるアドバイスなどございましたらお待ちしております。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
世間を超えた視野に包まれ、世間を生きていく
こんにちは。大分お辛い様子ですね。
ご縁をいただきましたので一緒に考えさせてください。
さて、働くことの何がそんなに苦しいのでしょう?
漠然とした辛さがどんどん大きくなってきて押しつぶされそうなのか?何かきっかけや具体的な理由があるのでしょうか?
人間関係・労働環境・やりがい・それとも体力的な事?あるいはその全て?
色々あると思いますが、もしかしたら自分でもわからない理由があったりするかもしれません。
抵抗はあるかもしれませんが、まだ受診されていないようでしたら一度精神科を受診されてはいかがでしょうか?
プロの診断によって「私はこれに苦しんでいたんだ!」というものが明らかになるかもしれませんし、お薬でも随分気持ちが楽になるかもしれません。「死にたい」という気持ちがそこまでお強いのなら受診をおすすめします。
仕事については私も食べていけるなら何もしたくないなあと考えることはあります。そうできたらすっごく楽ですよね。でもよく考えるとそれって楽しいのかなあ?とも疑問が浮かびます。
「楽なこと」と「楽しいこと」は違うのかもしれません。
つまり、「仕事は耐えられない」というのは「楽」を求める気持ちであって、本当の願いは「仕事を楽しみたい」「(仕事でなくとも)何かやりがいをみつけて充実したい」というものなのに、それが思い通りにいかないから楽な方に流されているのかもしれません。
しかし働ける内容・量は人それぞれです。現実的な難しさはありますが生活保護もあり、最低限度の生活は保障されています。
それでも仏教的に言うならばそもそも「働かなければいけない」ということはありません。「働くから価値がある」わけでもありません。「今・ここ」に「ある・いる」ことがそのままで尊く有り難い事です。
その世間を超えた仏教的視野を知っているのとそうでないのでは、世間の荒波を乗り越えていくしんどさも変わってくると思います。
自分が思うよりも自分の在り方が許されている世界があるのです。
お母様の件を含めてケロリン様は世間で一生懸命戦っておいでです。どうか無理なさらずに、あなたを許す世界があると知って、時々肩の力を抜いてください。
「私働かなくてもいいかな?」と問えば「いいよ」と答えてくれる仏様の世界があるからこそ、働いて、戦っていけるのかもしれません。
足元を今一度みてみる
拝読させていただきました。
「真面目にやれよ!仕事じゃないんだぞ!」
と、タモリさんが言っていたように思います。
一般的には「真面目にやれよ!遊びじゃないんだぞ!」…ですが。
例え形式としては仕事だとしても、遊びのような心持ちで楽しくやれたらそれに越したことはないですよね。
…自分を取り繕う億劫さではないでしょうか?取り繕うことで自分にやっと価値がでる、と思っていませんか?
そんなことないと思いますよ。まわりにどう思われるかという外見的なものに価値を置くと疲れます。良い悪いという以前に自分がしんどいです。それにそれは他人が評価することなので他人に委ねるしかありません。
それより自分の居心地のよさを大事にするべきです。いちいち、「~スイッチ」を入れずにすむ、絶対的な心地よさ。
「思い込み」が邪魔をしているんじゃないでしょうか?スイッチオフの自分はだめで、スイッチ入れなきゃ価値のない私。そういう自分観を疑って、そして手放しましょう。
自分の思いから自由になれば、もっと広々とした世界が開けてきますよ。
いきなり「変わらなきゃ!」、ではなくて、「まず自分が何をしているか。何を握りしめているのか。」を見てみましょう。
生きることの答えを探してみてください
拝読させて頂きました。あなたのお気持ちよくわかります。働くことも確かに嫌になりますよね、皆様そう感じながらやむを得ず生活の為に働いているのが現実ですものね。できるならもう仕事を投げ出して辞めてしまいたい、そう衝動的に考えるのもやむを得ないことです。あなたのお気持ちをお察し申し上げます。
仮にもうめんどくさくてやめてしまったらどうなるでしょうか・。想像してみると仕事や職場から解放されてスッキリします。確かに。
でもまた働かないと生きていけないとなりまた仕事を探すことになるのか、もう仕事するのも面倒だしなにもかも面倒だと思ってしまうかもしれないですね。そうして生きていることさえ面倒で嫌になってしまうかもしれません。
生きることが嫌になり、未来や夢や希望も描けなくなってしまうかもしれませんね。そうすると気持ちが前を向かなくなり負のスパイラルへとどんどん引きずられていきます。
では何のために今自分は生きているのか、そして生かされているのかを考えてみてもいいのではないでしょうか。普段気がつかなくても私たちは様々な人々やものごとの助けを借りて或は力を頂いて、生命を頂いて生きております。
そして私たちは今一直線に自分の死に向かって毎日を生きているのです。それは変えられない事実です。
そうした時に改めて自分を振り返り見直してみてください。何のために死に向かって生きているんでしょう。そして自分の生命はどう使っていくことが望ましいのでしょうか。そしてそもそも自分の生命って自分にとって大切なのでしょうか。
あわてる必要はありませんがよくよく考えてみてください。すぐに答えが出るわけでもありません。答えはそれぞれ自分が考えてそして生きながら答えを探していくことですから。
仏教的には全てが苦しみです。生まれることも、老いることも、病にかかることも、そして死ぬこともです。そのことを踏まえてどう生きていくことが望ましいのか、どう理解していくことが正しいのか、自分の生をどう答えを出していくことが良いのかをこれからあなたは生きながらよくよくお考えなさって頂きたいと存じます。
あなたのこれからの未来が素敵な出会いに恵まれて様々な経験を積まれていきます様に。大切な方方と心豊かに充実した毎日を送りながら成長なさっていかれて生きる事の答えを見出されます様にと心から仏様にお願いしご祈念申し上げます。
質問者からのお礼
吉武文法様
回答ありがとうございます。
おっしゃる通りです。楽しくないからせめて楽に生きたい、そう思っています。
今まで「楽しいことをするため、欲しいものを買うため、美味しいものを食べるため」に働いてきました。母と自分を養うだけなら今の半分の労働量で十分足りる。今まではその何かのためで働けていたのですが、今はそんなことよりも自分のやりたいことをしたい、そういった欲が強くなっているように思います。
今の仕事とやりたいことをうまく両立できれば満たされるのかもしれませんが、今のところ無理そうなのでまずは心持ちを変えることからやってみます。私は無宗教ですが、許してくれる存在があると考えるだけで心が軽くなるように思います。
宗像義順様
回答ありがとうございます。
スイッチのオンオフは私が子供の頃から気にかけていることです。
スイッチオフの自分はもう何もしない怠惰欲の塊で、わがままで、自分勝手な人間です。接客業のため素の自分で働くことはできませんが、聖人君子でいなくては!と必要以上に思いながら働いているのは事実です。
社内に対しても明るくて親しみやすい人間でいるように心掛けたり、周囲の人が少しでも不快にならないようにしています。
これからは変に気張らずに、ダメな自分と作り物の自分が融和するようになりたいと思います。
いつかスイッチがなくなるように。
kousyo Kuuyo Azuma様
回答ありがとうございます。
「自分の生命が自分にとって大切か」などいち度も考えたことありませんでした。
でも生命と自我を離して考えると、生命は大切ではないと思います。私は幽霊や霊魂などを信じていませんが(否定もしません)もしも死んだ人間の自我だけが残り幽霊になれるのなら迷わず死んでいます。しかし自我は死んだら消えると自分では考えているので、死ぬのがこわいのです。
でも、他者から考えれば、私の母や恋人などは、きっと私の自我と同じくらい生命としての命がなくなるのはつらいことだと思います。
なので私はこれからも死を自ら選ぶことはないと思います。
しかし生きる意味、生まれて生きている意味を考えると、自分がやりたいこと、これからの生き方などが見えてくるのかもしれません。
一度しかない人生ですし、投げやりにならずに、生きていきたいと思います。