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就活

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私は専門学校2年生で今年春に卒業です。
パティシエを目指し学校に入学させて貰ったのですが、授業をしていく中でパティシエになりたいという気持ちが薄れてきました。

長時間の勤務に低所得、仕方の無いことなのですが、就職したくなくなり、未だに何処にも内定は貰えていません。

卒業までには何とかせねばとは思うのですが中々。
全く別の就職でも良いと両親は言ってくれていますが、何をしたいかも決まらずです。

甘いのは分かっています。働きたい欲はあるのですがココと言うところもなく。
どうして行けば良いか毎日考えています。

好きな事は山ほどあるのですが…。

文章力がなく考えも纏まらず文にしてしまい、良く分からないかも知れませんが宜しくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

好きなことは仕事にしないという選択肢もアリ

s私のギターの師匠の一人、増田のアニキはかく語りき。
「人生で一番自分の好きなことは仕事にしちゃいけないよ。仕事になると楽しくなくなるからね。」
増田のアニキはそれ故に大好きなギターを生業とはしませんでした。
音楽仲間で音楽を仕事にしている人がいます。
実際売れる曲を書くという事はものすごく狭き門です。
なるほど、確かに一番好きなことは仕事にしない方がいいなぁと思ったもんです。
私があなただったらパティシエになるのではなく、パティシエに美味しいスイーツを作っていただく、という人生でもアリかもしれません。
私は尊敬するパティシエ、仏教の師がいますが、とてもかないまへん。
ですが、その死がいつかなくなったら自分がやるよりほかありません。
その事に近すぎるとそのことを純粋に楽しめなくなるという事はありますね。
いずれにせよあなたの人生。
好きなことを仕事にして楽しんだってよいのです。
周りとの比較をせず、自分は自分の作るものを完成させてみてください。
今の時点で自分を評価してしまっているのかもしれません。
自分に対する評価はいま評価をするべき時期ではないかもしれません。
いずれにせよ、あなたには技術があるはずです。
それは失う事はありません。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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