努力の辛さは苦しみでしょうか。
いま、私は難関といわれる国家資格の試験に合格するために働きながら勉強するしています。
合格しないとその先の展望が見えて来ないのです。
私だけでなく家族にとってもそうです。
受験勉強はしていますが、勉強が得意でないため、勉強することが辛いです。仏教では結果は信仰によって左右されないと理解していますが、努力をする辛さを乗り越える術、思考を教えてください。
既に四年間、休日もなく勉強してきています。もちろん成績は上がっていますが、小さい子どももおり、一緒に遊びたい。働きながらのこの生活が辛いです。今の本音を言えば、結果は欲しいけど努力は嫌だ。です。
安直な答えでは、やめたら済むことはわかりますが、応援してくれた妻に対しても、私自身もずっと後悔することはわかっています。諦めたくないのです。自分の中にいくつもの嫌な自分がいます。
どうぞよろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
心には心から立ち向かわない
仏教では人の行動原理を身体の行い・言葉の行い・心の行いの3つに分類します。そして心を調えるためには心以外から攻めるように修行が整備されています。
川の水を引いて田んぼにためるにはどうすれば良いでしょうか?水を手の平で押したり引いたりしていたらいつまで頑張っても無理でしょう。水を流すのに水自体へ体当たりするのはナンセンスです。まずは穴を掘るなり、土手をつくるなりして水の通り道を作り、それから流せば自然と流れていきます。水(心)を調えるための通り道(身体や言葉)を先に調えなければなりません。
そのために禅は坐禅(身体)、浄土門は念仏(言葉)をしますし、密教では五感(身体の感覚器官)へ訴えかけます。もちろん生産に向けてのことではありませんが、歴史的にはかなり早い段階から在家者の生産活動に落とし込まれてきました。昔の職人さんは職場に神棚や仏檀を祀りましたし、武家も家訓に書き残してまで毎日仏壇のお世話を欠かすなと厳命しました。
さらに言うと先に挙げた水の例えは、法句経という原始経典に収録される第145番の詩を噛み砕いたもので、お釈迦さまが小僧さんに説いた教えだそうです。説法の相手自体は小僧さんですが、内容は仏道修行を灌漑職人、矢作り職人、木工職人の仕事に例えたものですから、最初期から通じるものがあると考えられていたのでしょう。私は意図があって今はできるだけ狭義の仏教を説くようにしていますが、本当は一般の仕事や生活に落とし込まれた広義の仏教にこそ日本仏教の魅力と実力があります。
脱線しました。そのように神頼みではなく、自分自身の精進のために手を合わせ、目標を口に念じてから勉強や仕事を始める流れを『習慣化』すると、やがて心も後から自然についてくるでしょう。これはカルトじみた超常信仰の話ではなく、心理学でいう所の古典的条件付けに神仏やご先祖さまから家族・一族への想いを上乗せしただけの合理的な儀礼です。
その意味では机の上でお香を焚いてから勉強するとか、ハチマキをキュッとしめるだけでも可です。昔ながらの一杯ひっかけてから…も実はこれの変わり種です。しっくりくる形を探して下さい。そういったことを『続ければ』いずれ勉強しないと落ち着かないタチになってきます。まぁ、私は義務的努力アレルギーですけどね(爆
気の持ちよう(心)も書きたかったのですが、紙面の都合からまたご縁があれば…
そこに喜びがあるかどうか
何ごとも「努力」が必要だとは思いますが、「〜〜」の為の努力であれば、「〜〜」が達成出来なければその努力も報われません。人生も「〜〜」の為だから辛くても努力するのであれば、「〜〜」が得られなければ徒労に終わります。
大切なのは何かの為ではなく、今、頑張っている努力そのものに喜びがあるかどうかが大切ではないでしょうか?
近頃はなかなか同じ目標に向かって心を一つに出来る家族は少ないですよ。応援してくれている奥様や遊んで貰うのを我慢しているお子様の為にも、今夢に向かって勉強させて貰えていることに感謝してみませんか?
メリハリがないと頭には入らない
おはようございます。
一連の質問でindigoさんの悩みの核心が見えてきましたね。
あなたは,ご家族と一緒の時間も「こんな事していて良いんだろうか?」と思いながら今まで勉強と仕事に追われる日々を過ごしていらっしゃったのではないですか?
あなたはきっと真面目すぎるのです。
ハッキリ言います。
お子さんと思いっきり遊んであげて下さい。
勿論、目指すものがあるなら勉強は続けなければいけません。
しかし、メリハリがないと何事にも集中出来なくなるという研究結果もあります。
目標を達成することと,今味わっている我慢やストレスがケンカしてしまうのです。
今のあなたはきっと、ここまでやったら一段落付くから・・・とか、ここまでやらないと子供と遊べない・・・
そんな風に、先ず勉強や仕事の側から考えておられたのではないですか?
それはたぶん全く逆です。
例えば、今週の日曜日は勉強を一切忘れて子供といっぱい遊ぶぞ。
とか、
夏休みにはどこかに行くために、しっかり勉強しておこうとか・・・
子供やご家族、休日の過ごし方を中心に、仕事や勉強を考えてみたらどうでしょう?
きっと、身近な楽しい目標を立てることで、勉強にも集中出来るはずです。
人の記憶は睡眠や休憩の後の一定時間が一番だという学者さんもいますし、人が集中出来る最大時間は一日のうちで5時間だという学者さんもいます。
長い時間休み無しに詰め込んでも頭に入らないという学者さんが殆どです。
思いっきり遊んで、また思いっきり勉強する。
ご自分でそんなサイクルを身に着けてみて下さい。
きっとご家族も,そしてあなたも、ストレスのない楽しい毎日が送れるようになるはずですよ。
これが終わったら勉強、ではなく、ちゃんと頑張って遊んで下さいね。
やる時はやるしかない
indigoさま
努力は辛いと捉える必要はないのではないかと考えます。
辛いと感じるのは、後先を考えるからです。体力的な辛さはあるのかもしれません。しかし、それも吹き飛ばすぐらいの、決意があなたにはあるのではないでしょうか。
日曜日の夕方「サザエさんを見ていると、明日からの仕事のことを考え憂鬱になる。という話と同じです。
金曜日の夜は明日が休みだと思い、なんだか元気になってしまう。
辛さは、自分で作り上げているものにすぎません。そのもの自体に辛さはありません。
トイレ掃除を楽しいと思う人がいれば、汚い嫌だ辛いと思う人もいる。
逃げたい気持ちになると、人は自分を正当化しようと自然に逃げる理由を考えます。自分や周りの人を納得させるために。
「子供がかわいそうだから今日は遊ばなくてはならない。私は仕方なく、遊んであげているだけで、何にも悪くない。勉強をさぼっているわけではないですよ。」のように(これは私の想像の世界です)。
誰のためとか、ではなく、ご自分が決めたことですよね。時のとして息抜きも必要です。そんな時間にお子さんと遊べばいいじゃないですか。
勉強する時は、目の前のことを只、学ぶのみ。後先考えて心配したり、嫌だ、逃げたい、などと思っていれば、効率が悪いです。やるからには、「一行三昧」ひたすらに打ち込んでください。
今日はハシゴの何段目か
さほど高所恐怖症でもないのですが、年末本堂の屋根の上の登って命がけで掃除をします。
毎年、恐怖の実験をしているのですが、そのまま、景色を見ている時って、怖い、とかは起こらないのです。
「おちたらどうしよう」とか、二次的の思いを加えるとたちまち恐怖心が生じてくるのが人間のしくみであるように感じます。
特に注意を要するのは、屋根からハシゴ、ハシゴから屋根い映る時です。
ハシゴはそんなに階段はないですが、たとえば「91段目、92段目…、93段目…」などと前後は見ないほうが良いことが分かりました。
前後を見ると、比較や恐怖、不安が生じるからです。
ところが「今の一歩、今の一歩、今の一歩」と、目の前の事だけ、今の事だけ、今向っている所だけをやってちると不思議に恐怖も不安もありません。
たとえば夜寝れない時もそうでしょう。
時計をみる、ああ、明日仕事だ、どうしよう、寝なくては…、とか考えていると、不安になります。
そんな時は、何かコツコツやっていくことが望ましいです。
前後を忘れて、一歩、一歩、…一歩をやるからです。
参考になるかどうかわかりませんが、この理論を勉強に当てはめてみてください。
今日はハシゴの何段目か?
いや、問うまい。
一歩、一歩。
一問、一問。
子供たち、ちょっと遊ぶか。お父さん息抜きしたくなった。
妻よ、いつも本当に、有り難う。結果は分からんが見守ってくれてありがとう。
↑こういう一歩も、ちょくちょくはさみながら。
質問者からのお礼
邦元さま
ありがとうございます。
言い訳を並べて逃げていることを自分で改めて知りました。
気持ちをしっかりと立て直して努力していきます。
山本 文匡さま
ありがとうございます。
家族のありがたみ、やらなければならないことを指摘いただき、頑張ろうと思いました。
ただ、努力そのものには喜びはなかなか見つけられないでおります。達成したその先のイメージにはとても良い物を描いているのですが。
小原観慈さま
ありがとうございます。
非常に嬉しく思います。自分自身、何が今の自負の悩みの根源か解らずにいます。
どこの誰かも解らない私のために、考えていただきました事を感謝します。