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亡くなった祖母に会いたいです。

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一昨年の5月に大好きな祖母が亡くなりました。三年前の12月に病気が発覚してから半年という早さでした。
私は当時学校行事で怪我をしてしまって、お通夜にもお葬式にも出られませんでした。そのことを今でもずっと後悔しています。

祖母は私のことをいつも褒めてくれて、心配していてくれる、とても優しい人でした。急いでバイトを初めて初めてのお給料でなにか買ってあげたかったとか、これから先の話ですが成人式の写真を見せたかったとか、もっと会いに行けばよかったとか、あの時こうしていればよかった、と思うことばかりです。

ここのところ家族がごちゃごちゃしていることもあり、祖母に会って話をしたいと思うことが増えました。
祖母のことを思い出すのは大抵夜で、眠る前なのですが、いつもいつも祖母に会いたくて涙が止まらなくなります。とにかく祖母に会って話を聞いてもらいたいし、頭を撫でたり、抱きしめたりしてほしいし、お通夜にもお葬式にも出られなくてごめんなさいと謝りたいです。

そう思うのはいけないことでしょうか?祖母のことを思い出して泣くのも、祖母が安らかに眠ることを妨げてしまっているのでしょうか?
また、私の家には仏壇がなく、お線香をあげることもできませんが、祖母の写真に向かってこんなことがあった等話しても良いのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

報恩のおこない

おばあちゃんはあなたが可愛くて沢山の愛情を注いでくださいました。
その愛情を一身に頂いたのですから、どうぞその愛情、やさしさ、あたたかさを供えた人間になってください。それがおばあちゃんのメッセージではないでしょうか。
恩に報いるべく生活をいたしましょう。
人間は、どう生きても最終的にどう生きるべきかははっきりしているものです。
どんなに道はずれをしても、それでも反省して帰ってくるところがある。
どんなに人の心を失っても、それでも反省して取り戻すべき人間性がある。
おばあちゃんは最高の宝をあなたに授けてくださいました。
知人の僧侶は、おばあさまが亡くなられた後、非行に走ったそうです。
ある時「オレがこんなことをしていたら婆ちゃんが悲しむ。婆ちゃんに悪いような気がする。」と改められました。今は、どこかで立派なお坊さんになっておられると思います。
人は亡くなってもちゃんと生きているという事です。
人は亡くなってもちゃんと自分に向き合えば❝会える❞ということなのです。
あなたは今、おばあちゃんが亡くなってしまった、ということを強く持っていて、お婆ちゃんとの今度の関わり方が見いだせていないだけだと思います。
霊魂とは自身の中の無くなった方への気持ちの事です。
それは失われる事はありません。
あなたの中のおばあちゃんが本当ににっこりされるような生き方を想ってみてください。
きっと立派な生き方がみえてくるでしょう。
その立派な生き方とは、もうすでにあなたに授けられてきた「おばあちゃんのあなたに対する生き方」でもって示してくださっていたのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

大丈夫です。お祖母様は見守っています。

拝読させて頂きました。お祖母様がお亡くなりになられ大変悲しい思いをなさっておられることお察し申し上げます。そしてお通夜葬儀に出席できなかったことを悔やんでいらっしゃるのですね。あなたのお気持ちをお察し申し上げます。
昨年12月24日うちのお寺の檀家さんのお祖母ちゃんがお亡くなりになられました。そのおばあちゃんが10人のお孫さんをとても可愛がっていらしゃいました。
通夜葬儀は12月の29日30日にて執り行われましたが、そのうち大変可愛がっておられたお孫さんの一人はインフルエンザにかかっていて参加できず、もう一人年長のお孫さんは商社に勤めて今ニューヨーク勤務の為お戻りになることはできませんからやはり参加できませんでした。
ですからそのお二人のお孫さんには場所は違えどもどうかおばあちゃんを心を込めてお念仏おとなえして真心こめてご供養なさってくださいね、とお伝えしました。
お二人のお孫さんはそのようにそれぞれにそれぞれの場所にてご供養なさって頂きました。
そのお孫さん達のおばあちゃんをご供養するお気持ちは必ずや仏様に通じて、おばあちゃんを正しくお導きなさってくださいます。
そしてなによりそのことを心から感じ取り喜んでいるのはおばあちゃんです。
49日の法要には皆さん集まることが難しいとのことでしたから次回おばあちゃんの1周忌にはお孫さんが皆さんお集まりなさるそうです。
きっとその時もおばあちゃんは喜んで下さりお孫さん達をこれからもお見守りなさってくださいます。

あなたのお祖母様を心を込めてご供養するお気持ちは必ずお祖母様に通じて参ります。妨げになるどころか安らかになられてあなたの思いをお喜びなさっていらっしゃいます。
これからも合間あいまお祖母様の写真やあなたの心にお祖母様を思い浮かべて手を合わせ真心こめてご供養なさり、心の中でお祖母様に語り掛けてくださいね。きっとお祖母様のお声があなたの心に聞こえて参ります。
あなたとお祖母様のご縁はこれからも続くのです。そしてこらからもお祖母様があなたを見守ってくださっているのです。どうか安心してお祖母様を思いながら健やかに成長なさってくださいね。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
祖母に今までしてもらった沢山のことを思い出し、また涙が出てきました。
妨げにはならないのですね。それを知ることができて本当に良かったです。
また、祖母に誇りに思ってもらえるよう、心配させないよう、行きていこうと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ