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無謀なことですか

回答数回答 1
有り難し有り難し 18

好きになった人を一度「明らめた」のですが、自分から距離を置き、近づくことを控えるようにしたら 特定の条件の時には彼の方から近づいてくることにきがつきました。

①ふたりのとき
②自分が話したい時
③さみしい時

必要としてくれる時だけ 優しく応えてみるものの周りに私以外の人がいればないがしろにされるし、自分の友達は紹介してくるも 土日にデートに誘われるわけでもなく 時々もどかしいです。あまのじゃくなひとなので時に発言についても困惑させられます。

触れれば逃げる
近づけば避ける
自分が好意を示していることに気がつくと
すぐに後ろに下がる、ので
(どの女子に対してもそうみたいですが‥‥

そんな相手ではありますが
それでもそばにいたいと思うのは
無謀なことなのでしょうか


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無謀です。

…というより、理性で感情を超えて、分析し、冷静に判断するべきであると思います。
世の中の男性の不倫屋さんを見てください。
学生時代のモテモテ屋さんやナルシストさんを思い出してください。
女性を食いもの、なぐさみもの、遊び相手、性欲のはけ口にしている人ばっかりです。
実際、そういう男性はワンサカいますし、その対極として誠実で行動で示す堅実派の純愛男性たちもいるのです。
「好き」っていう感覚はぶっちゃけテキトーです。
永遠の愛ではないと思います。
何を根拠に好きになってしまうのでしょうか。
ダメ男を好きになってしまって「好き」だからというテキトーな理由で人生をボロボロにしてしまった女性たちはこの世の中にどれだけいるでしょうか。
私がもし女性の立場であるならば、その女性ならではの「さが」を自覚して、その「さが」に支配されて冷静な判断力を失わずに、もっとも健全な男女関係を見出すと思います。
好きになる男性は今後30人いると思ってください。
その男性には悪いですが、その男性よりもっと誠実で健全で優しくてお金もあって頼りがいもあって、自己愛よりもあなたを愛してくれる男性は必ずいるものです。
どう考えても、あなたに対する態度は自分が本命さんから構ってもらえない時の寂しさを紛らわすための関わりであるようにしか思えません。
男性を見極めるには、その男性のあなたに対する誠実さで判断するよりほかはありません。
愛だけ、好きだけでは、人生の荒波を超えてはいけません。
もっと自分を大事になさってください。
男性のホンネとして申し上げますが、その人はあなたの事は好きではないでしょう。
あなたが彼のことを好きでいることを分かっているから、都合のいいときにかまってあげている、程度の感覚でしょう。深入りしないことです。
誠実な姿勢を示してくれる人を探しましょう。
愛は愛でも自己愛、好きは好きでも俺にとってお前は都合がいいから好き、ではそれは愛ではないのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

長文で分かりやすくご回答いただきありがとうございます。
理解ができても納得ができずに苦しんでいるのだと気が付きました。

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