できることならば、許して欲しい。
先日、私たち夫婦で大切にしていた猫を安楽死させました。
慢性腎不全の末期であり、発作を起こし苦しみもがいている状態が続いた為です(治る見込みは医学的にはありません)。
勿論、獣医の先生から「このような選択肢もあります」とお話していただいたのですが、獣医の先生のご助言を盾に自分を守ることは間違いだと思います。
私が安楽死を選んでも選ばなくても、猫は先に亡くなったと思います、けれど私の心には少なからず「もう見ているのがつらい」という弱い心があったことも分かっています。
私は猫を胸に抱き、猫の心臓が止まる瞬間を感じました。
「許してね、許してね、お疲れ様」と泣き叫びながらの瞬間でした。
今回、私たちの大切な猫に、様々なことを教わりました。
人間(特に私です)とは傲慢であり、なんと勝手な生き物であるか。
それなのに、私たちの猫は怒ったりしないのです。
生きている頃から、そうでした。
私たちを頼ってくれていました。
こちらでお坊さまに、聴いていただきたかったのだと思います。
猫の心臓が止まった時、私は確かに「救われたい」と感じ、罪深いと痛感しました。
心から懺悔し、猫の死を無駄にしないよう、私にお坊さまのお言葉をいただけませんでしょうか。
できることならば、猫に許して欲しい。
そしていつかまた、家族三人で暮らしたい。
猫に苦しみの少ない場所でゆっくり休んでいて欲しい。
毎日、お線香をお供えし、手を合わせています。
どうか、喝も含め、お坊さまのお言葉をいただけたらと思っています。
宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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南無阿弥陀仏
愛する猫ちゃんのご命終に謹んで哀悼の誠を捧げます。 南無阿弥陀仏
何が良かったのか、悪かったのか。私たちにはわからないものです。しかしおっしゃる通り人間はわからないものをわからないものにしておけない弱さがあり、自ら善悪の判断をつけ、それで苦しんでいく存在でもあります。
猫ちゃんは確かに苦しかったでしょう。しかしそれ以上に見ているこちらが苦しかった。猫ちゃんではなく、こちらが苦しさに負けて出した決断だったかもしれない。
でもそこに「苦しさを少しでも和らげたい、楽にしてあげたい」という気持ちもたしかにあった。たとえそれが人間の傲慢さからくるものだったとしても。
私は以前犬を飼っていたのですが、最後は老衰で起き上がる力もなく…外で飼っていたものですからカラスに毛を抜かれながらの命終でした。(カラスは巣作りに毛が欲しかった様です)
それが良かったのか、悪かったのかは私のわかるところではありません。ただただ南無阿弥陀仏とお念仏申すだけでした。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は「何が善で何が悪か私は全く知らない。あらゆる煩悩がそなわる私たち、そして燃え盛る家の様にすべてが激しく移ろうこの世界においては、全てが嘘偽りや絵空事であり何一つ真実はない。ただ南無阿弥陀仏のお念仏だけが真実である。」(歎異抄後序より抜粋意訳)
とおっしゃります。私たちの考える事、為す事に完全な善はないのでしょう。誰も何も傷つかない完璧な行為はないのでしょう。私の喜びの裏に誰か涙を流す人がいるような在り方なのでしょう。
その私が善悪を判断し答えを掴むのでなく、私はただ念仏する。念仏するとは「仏様の正しい教えに私の姿を教えられる」ということ。善悪など様々な事を分別しようとする私を教えられるということ。
猫ちゃんは許すも許さないも申しておりません。病気の苦しみも苦しみとして、安楽死も安楽死としてそのまま引き受けていきました。
猫ちゃんではなく私が私を許せていないのですよね。猫ちゃんは今はもうこの世の縁尽きて仏様の世界に旅立っておられます。仏様は真実を教えてくれます。真実とは事実そのまま、ありのままです。
お念仏申すものは、命尽きて浄土にてまた再会するといわれます。ただ念仏し、分別する私の姿を知らされ、事実を事実として受け止め、「またね」と思いを馳せながら手を合わせましょう。
南無阿弥陀仏
ネコちゃんは感謝してます。
質問文を何度も読み返しました。
命とは何なのか?と考えされられました。
目に入れても痛くないほどかわいい子猫から?関わりが始まり......
長く暮らせば暮らすほどに、心を通わせ喜怒哀楽を共に生き、そしてあなたの腕の中で眠るように息を引き取った。
ねこちゃんにとって、あさがおさんたち夫婦は、世界のすべてでした。
無条件で愛され、自分という存在に価値を与えてくれる存在でした。
その腕の中で最期を迎えれる。
ねこちゃんにとって、最高の幸せだったと私は感じます。
安楽死の選択で悩んでおられますが.......
もう、そのような事は大きな問題ではない。
命尽きる瞬間にあなたがいるかどうかの方が、ネコにとっては重要だったのです。
確かに人間という生物は傲慢極まりない。
ネコが飼われ始めたのも、ネズミ退治という目的からです。
しかし、そのご縁の中で、かけがえのない3人家族が生まれたのです。
罪深いと感じておられますが、、、
ネコちゃんに対する「感謝の気持ち」を持ち続けて下さい。
純粋な供養というものは、must(~しなければならない)ではありません。
気が付けば手を合わしている、線香をあげている、ただそれだけです。
豪華なキャットフードを供えたからといって安らかに眠れるわけではありせん。
自然と手を合わせるようになってくれば、罪は消えます。救われることもできます。
救われる事も、罪を消す事も、あなた自身で解決していくのです。
ネコちゃんの、最期のお話をきっかけに、私は僧として人として、様々な事を考えさせていただけました。
また、3人家族で暮らせる時が来れば嬉しいですね。
あさがおさんは、ネコちゃんの死を無駄にしない生き方をされているなと、少なくとも私はそう思います。
愛猫さんは恨んではいませんよ
あさがおさんお辛いですね、そしてご主人のお辛いものとお察しします。うちにも猫はおりますのでお気持ちはわかる気がします。心よりお悔やみ申し上げます。人にもよるのかもしれませんが長年に渡り共に生活してきたペットさんが亡くなることは家族を失うことの同じくらいの寂しさと哀しみに陥るものかと思います。全てに寿命があることはわかっていてもその想いはどうしようもないもだと思います。また安楽死させたことへの選択が間違っていなかったかとのお気持ちもわかる気がします、それだけ猫さんを家族として共に歩んで来たからこその想いだとお思います。安楽死は猫さん本人の希望で選んだわけではございませんが、共に生きてきたあなたが選んだ選択ですから猫さんもそれでよかったと思います。決してあなたの心が弱かったから間違えての選択をしたわけではないと思います。猫さんもそれを選んで欲しかったと思います。ですから猫さんは恨んではおりませんのでご安心ください。それどこらかあなた達ご夫妻とともに命を歩めたことを感謝していると思ってもいいのかと思います。今あなた様にお願いしたいことは、どうぞそのご家族の猫さんが阿弥陀如来さまのお導きの元に極楽浄土に生まれ変わってくださることを祈って欲しいのです。そして猫さんとの日々を忘れることなく思い出として心にお持ちいただきたいのです。思い出を振り返り噛みしめるとき愛猫さんはあなたのお心に蘇るものです。そして喜んでくれるものです。私も祈らせていただきます。猫さんの心はその思い出ともにこれからもあなたのそばにいてくれます。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
吉武文法さま
本当に猫は「そのまま」を引き受け、亡くなっていったのですよね。本当にそうなんだなぁと思います。その強さに驚き、ただ悲しみ寂しがるばかりで居ました。これからは手を合わせながらお念仏も唱え猫がゆっくりと過ごせるように想っていきます。文法さまの所にいらした犬さんも、きっと文法さまを見守ってくださっているのだろうなと目に浮かぶようです。「少しでも楽にしてあげたい」と思ったことも、すくい取ってくださって、ありがとうございます。自分で自分を許す道のりを少しずつ歩みたいです。引き受けることのできる動物から、本当に色々なことを身をもって教わることができた私たちは幸せですね。
憲章さま
やはり別れは悲しいものですね。恨んでなんかいないのですよね、そうなんです、あのこが恨むなんてことはしないのは分かっているのに、人間(私だけかも知れません)は本当に頭ばかりで生きてしまったりするのだなと泣いたり苦笑いしたりの毎日です。あれだけの楽しい日々をくれた猫に「ありがとう」と伝えながら、楽な世界に向かってくれることを祈ってみます。「極楽浄土」という文字を改めて見直すと、きっと素晴らしい世界ですよね。そんな素晴らしい世界へ行けるように憲章さまに祈っていただけて嬉しいです。ありがとうございます。憲章さまのお家の猫さんが健やかに過ごされますよう私もお祈りしています。ありがとうございます。
海老原 学善さま
まだ猫が小さな頃に動物病院からもらい受け、夜泣きをすればあやし、朝にまた猫と寝るような親子のような生活をした時期がありました。獣医さんも本当に最良の形を考えて最期を迎えさせてくださったこと。その時に大きな「ハーッ」という声でもなく息だけでもない「何か」が私の耳元で聞こえたこと、あのこが私たちと生きて私たちを「世界」としてくれたこと。全てが有難いのですよね。学善さまのお言葉でまた改めて思い返しました。ありがとうございます。私もお坊さまのご回答を何度も読み返し、いつかまた三人で暮らせたら本当に嬉しいです。私はついmustになりがちだったので、心に強く刻みたいと思いました。私が自分の人生をよい形にしていけるよう、また何度も読み返します。
まだまだ泣いてばかり、迷ってばかりですが、涙しながら微笑みながらお坊さまからのお言葉にも感謝しております。
心から、ありがとうございます。