hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

他人に嫌われるのが怖い、しかし、どうしても他人を疑ってしまう

回答数回答 1
有り難し有り難し 26

私はよく、友人とネット上で会話していました。
会話していた頃は、それなりによく話し、
それなりに楽しくやっていました。
しかし、最近は皆、都合等があり私自身も都合や生活も違う為、
あまり話す事がありません。

時々、声をかける事があっても
味気ない返事だったり、返事が貰えなかったりする事もあります。
皆それぞれ忙しい、それぞれの生活が大変。
なので、あまり会話する時間も少ない。

皆それぞれ違った事をしているので、
それは仕方が無い事なのは分かっているのです。

しかし時々、もしかすると自分が皆に嫌われているんじゃないか?と言う心情になってしまう事があります。

もちろん、これはただの被害妄想であり、
自分でも、他人を疑うのは良く無い事だと理解しています。

もしかすると自分が○○だからみんな自分の事を馬鹿にしているんじゃ無いのか?
とか、私が前にこんな事をしたから嫌いなのではないか? 
とか、自分が頭悪いから関わりたく無いのではないのか?
等と考えてしまい、
怖く感じてしまう事があります。

もちろん、本人にそのような事を言われた事はありません。
しかし、もし仮に本人が「そんな事は考えていない」と言っても
本当なのか疑ってしまいます。

こう思ってしまう理由は、過去のトラウマにあるのですが、
どうすればこの先、他人を信じられるようになるのでしょうか。

私は疲れているのでしょうか?

もし出来たら何か人間関係に関するアドバイスをください。
お願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

事実以外相手にしなければいい

例えばネットやテレビのニュースの大半は「推測」であったりします。
表向きにその様に見せかけているだけで、真実・実際はまるでそうではないものです。
そういうニュースというものは真実ではないのでやくにたちません。
テレビ越しに発言している芸能人であっても「それらしら」を装って演じていたり、自分の本心を押し殺して見せかけだけのものであったりします。
真実はニュースではありません。
ニュースは真実っではありません。
ではニュースとは何か。
情報です。
情報は真実ではない所で発信されているものです。
同様にあなたの怖れや不安も推測もみな脳内情報です。
ほとんどが真実ではないガセネタ。ニセ情報です。
真実は実際にその相手に会ってみたり、実際にその事が始まってからでないとわからないのです。
だから、脳内情報は相手にせずに、今向っていることとだけやり合っていれば、人生は軽いのです。
このhasunohaの回答だって、情報です。
実際の私はこのネット上にはいません。
ネットというもの自体、情報だけです。
写真がいくら鮮明だって単なる情報で生の映像、実物ではないでしょう。
音声がHDだって、その時の音声ですでに過去のことです。
私は真実以外相手にしません。
実物以外は全部情報だからです。
北朝鮮からのミサイルが飛んできても、私の身体に実弾が飛んできたわけではありません。
私の身体にミサイルが当たったら「死んだらどうしよう」という事を考える前にしにます。
つまり、それが情報と実際との違いなのです。
それが情報と事実との違いなのです。
さぁ、このページも捨てて、目前の情報以外の事実を相手にしなされ。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

とりあえず、私の友人が 私の事をどう思っているかは分かりませんが、
本当かどうかは分からないとしても、
今の所、私の事を嫌いと言うのは、自分の脳内で作り上げた想像なのは事実です。

最近は、逆に私の方がこうして他人を疑って
無意識の内に皆を嫌っている事もあるかもしれません。
ですので、相手の事をもう少し信じてみる事にします。

煩悩スッキリコラムまとめ