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周りの人達を気にせずに自分を表現するためには

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私はもともと、自分が周りからどう思われているか、というのをひどく気にしてしまう人間です。現在、アマチュアで音楽活動(バンドのボーカル、弾き語り)をしているのですが、それをやるにあたって自分の性格が災いしています。趣味でやっていることといえど、音楽活動は少なからず自己主張が必要なことだと感じています。音楽をやっているとどんどん知り合いが増えていき、それは大変嬉しいことなのですが、今まで少人数の人間関係しか持ってこなかった自分にはストレスもあります。田舎の狭い人間関係の中での活動ということもあり、色々なトラブルがあったり、私のことをよく思わない人間もいます。そういった中で、周りの目や評価を気にせず、もっと楽しく活動するにはどうしたら良いでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「諦める」ことです

一般的に諦めるという動詞は、あまり積極的な意味で用いられていません。目標としていた何かが到達不可能だから、「諦めた」という使い方ですね。

しかし、仏教では「諦める」とは「明らかにする」、「真理を究める」という意味で用います。真理を究めるとはものごとのあるがままの姿を見究めるということです。

人間は誰でも、「俺がオレが」という思いを多かれ少なかれ持っているものだと思います。そのなかで私の知る範囲だけの話ですが、音楽が好きで他者の前で演じようとするような人は自己顕示欲が強い人が多いと思います。「オレが一番うまい、オレの歌を聴け」という思いが他者への攻撃的発言になったり、足を引っ張るといった行為としてあらわれることも、多少はあるように思います。

要は、人間なんて「そんなもんだ」と諦めればよいのだと思います。また、自分に対してよく思われたいというのは、あるがままの自分よりよく思われたいということだと思います。あるがままでよいのだ、実力以上のものは出せっこないと「諦めれば」よいのではないでしょうか。

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私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

人の価値観に合わせる必要はない

あきこさま

バンド活動楽しそうですね。
趣味をのびのびと楽しくすることは生きる活力につながりますね。

しかし周りの人の気持ち、思いがきになるとのこと。人の価値観はそれぞれ人によって違うものです。良い悪いをつけたらそれぞれに思いを持ちます。

周りの思いが気になるとのことですが、何をするにも、活動が大きくなったり人との付き合いが広がればその分反対意見というものは出てくるものです。しかし、その人の気持ちは、こちらからは想像するにすぎず、本当かどうかは定かではないものです。もちろん人に迷惑をかけてはいけないと思いますが、人の価値観に合わせる必要は全くないですよね。

人の思いを気にして、想像していたら、身動きが取れません。何にも考えなくていいのではないですか。人にどう思われようとあなたの趣味は変わらないでしょう。何にも生活に影響ありません。堂々と趣味を楽しめばいいのです。

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おきもち

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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

アイツが、人目が、あそこが という此処。此処という おのれ。

こんにちは、自称・ホトケ・ギタリストのタンゲです。
アーティスト志望であるのに人からどう思われているかが気になるという、矛盾。OH分かります。
でも大丈夫です。あ、後半部はだんだん歌みたくなりますが、
それはイイとして、
あなたは、まずは、とりあえず、自分をやればイイだけです。
ラーメン屋は人に美味いものを食わせてやろうと思ってラーメン作っていません。自分が自分をやっているだけ。
自分がウマいものを作った「お、うめー」結果、人が評価してくれれば、行列ができる。
全ては自分が、いいと感じるか、思えるものをやれるかどうかなのです。
あとは、それを作る、練る、やるだけ。
アウトプット、ライブ、魅せる事は二の次なのです。
自分が気持ちよければそれが真実。それが最高のアート、作品になる。
そもそも人の眼なんてなんでしょうね。
良く見せたつもりでも そう 思われる。
悪く見せたつもりでも そう 思われる。
どう 思われたかを知ることは誰にもできない。
ことばで評価はあっても、その時限りで永続しない。
それは あなたのこう思われたいという願望があるだけ。
そして 壊されたくない守りたいイメージがあるだけ。
さらには 人から思われている自分が自分であると錯誤しているだけ。
それは あの人こんな風に思っていないかしらという自分の思い。
ぶっちゃけ それは、私の中のあなたであって、あなたではないの。
そして、それは気づいたの、ワタシだったという事を。
あなただと思っていたわ。
私の中のあなたが、あなたであると。
だけどそれは 私の中のあなただったの~♪。
おっと、
人生一生、自分をやるだけです。
あの人が、あそこが、という此処。
此処という自分。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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