生きる勇気と死ぬ勇気
最近中学時代の後輩が自殺したと聞きました。
その前には中学同じクラスだった友人が自殺しています。
そこでふと思ったのですが、死ぬ勇気があるのなら生きる勇気があるのではないのではと思います。
この二つの勇気は違うものなのでしょうか?
また、別な話ですが彼らを救うことができなかった自分をとても悔やんでいます。私が悔やんでも意味がないのですが、二人との思い出を想うたびに涙が出てきます。
死後の世界でも二人は元気でやっているのでしょうか?
元気ならば涙ではなく笑顔を見せてあげたいなと思いました。
いっぺんに二つの質問、そして拙い文章で申し訳ありません。相談に乗ってくださると助かります。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
健やかなる時も病める時も
「死ぬ気になれば何でもできる」なんて言葉もありますが、私も死ぬ勇気というのはすさまじいものだなと思います。私にはとてもできません。
しかしね、「死ぬ勇気があるのなら生きる勇気があるのでは?」と問うのはやはり生を選べる勇気ある者の言葉ですよ。
精神的に健康な人の健康な考えから出る健康な視点で、精神的に不健康な人の選択の是非を問うても本人には伝わらないのではないでしょうか。
普通の考えが普通でない状態の人を苦しめる。
別に、死を選ぶ人が普通でないとか異常だとか差別したいわけではなく、彼らには彼らなりの考えがあってのことなのでしょう、という事です。
言うならば彼ら自身もまた「健康人の意識で病人になって苦しんでいる」(※誰の言葉か出典は忘れました)のではないでしょうか。
今の死を選ぶほどの苦しみは本来健康であるはずの私が不当に受けている状態だ…なぜ?どうして?私だけ?と苦悩そのものを真正面から受け止められず、苦悩せずにすむはずという形で苦悩している。
そうではなく、
病気の時は病人になって病気すればよい
ということなのでしょう、本人としては。
そして私らは自分が健康であるならばやはり病人の気持ちはわからない。それならば私がどう思おうと、彼らが病人であることを認めるしかないのでしょう。
さて、死後についてはわかりませんが、私は浄土真宗ですので極楽浄土ということに思いを馳せずにはいられません。
そこは楽が極まる世界ですから「極楽」なわけですが、それはつまり楽しいとか楽しくないとか、元気か元気じゃないとか、そうした価値分別を超えた穏やかな世界。全てのいのちが還る平等な世界なのでは?と想像します。
なので私はあなたが彼らのために涙することも笑顔を見せることも否定しません。あなたがあなたとして、いつか彼らも還った世界に還るその日まで、あなたのいのちを精一杯全うされることを願います。
南無阿弥陀仏
生きていた彼と死んだ彼
私の友人も自死しました。彼は死ぬ直前にレーシック手術を受けていました。まだまだ生きるつもりだったのです。なんで死んじゃったのでしょうね…私はきっと、衝動的だったのだろうと思っています。その時、彼には死ぬのが恐いという感覚があったのかな………死ぬことに勇気が必要だったのかな………そういう問題ではなく、彼の中で他に選択肢が無かったんじゃないかな………
まぁ、心の中のことは本人にしか分かりませんので、今となっては誰にも分かりません。ひょっとしたらその時、本人にも自分の気持ちが分からなかったのかもしれませんし。あるいはもしかしたら、遺された者が生きていくために、分かってはいけない領域かもしれません。何とも言えませんよね。
私の友人は家族との人間関係に行き詰まって自死しました。だからこそ、私たち昔の仲間が集まってやってあげたお葬式や法事をきっと、喜んでくれているんじゃないかなと思います。私たち仲間が生きている間は時々、彼のことを思い出してやりたいですね。なじるでも責めるでも嘆くでもなく、ただあたたかく、やさしく思い出してあげたいものです。それが私と彼の『今の人間関係』なのですから。
そして、同じ道を志した者として、この道を歩み続けることが彼への供養になれば良いなと思います。合掌
真心込めてご供養なさってください
拝読させて頂きました。ご友人の方と後輩の方を自死にて亡くされてあなたも大変なショックを受けていらっしゃるでしょうし、本当に悲しくやり場のない思いをなさっておられることと想像致します。
私はあなたのご友人の方と後輩の方が必ず仏様のお導きをお受けなさり仏様のもとに生まれ心から安らかになられて、明るく元気になられます様にとお念仏おとなえさせて頂きます。
南無阿弥陀仏
必ずお二人とも仏様のもとに生まれ変わり心から安心なさって明るくお健やかになられます。
あなたもどうかお二人が仏様に導かれて仏様のもとにて心から明るく元気になられます様にとお念仏おとなえなさり仏様にお願いなさってくださいね。
南無阿弥陀仏
生きる勇気と死ぬ勇気とはその人の心の中が全く違うと思います。
死ぬ勇気というか意思は生きることの絶望や重い苦しみを受けて精神的に追い込まれたり、日常の意識から掛け離れてしまった状況の時にやむを得ない選択をしなければならない時などに生まれる念かと思います。
誰しもが最初生まれてからすぐに絶望してしまい死にたいとは思わないでしょう。
刹那刹那に死に直面することはあれども、或いは考えてしまうことはありますが、すぐに死を選択することはなかなかないと思います。
生きていくことはたくさんの喜びも幸せもあれば悲しみも苦しみも体感していきます。それを踏まえて苦難を乗り越えていくことが生きる勇気です。
仏教では生きることは苦しみである、と説いております。
苦しみは他から与えられることもありますが、自分自身で作り出していることも事実です。
愛するものとは離れなければならないですし、嫌なものと会わなければならないです。そして思いどおりにはならないですし、求めるものは得られない。
それがこの世の中です。
それでも少しずつでも受け入れて乗り越えていくことや仏様に願い正しく導かれていくことが生きる勇気にもつながります。
お二人の方がお亡くなりになられたことにはおそらく様々な理由や状況や環境があったのではないでしょうか。本当ならば一命を取り留めて頂きたかったとは思います。が、しかしあなたにも周りの人たちにもその生命をつなぐことは大変難しかったのではないでしょうか。
どうかこれからもそのお二人を大切に思い返して真心込めてご供養なさってくださいね。あなたの思いは必ずや届きますからね。
質問者からのお礼
御三方の意見大変励みになりました。今後は亡くなった二人の分精一杯生きていきたいと思います。