消去願望
初めて書き込みます。
30代後半の女性です。
昔から仲の悪い無関心な父親、過干渉の母親に育てられ、妹とも折り合いが悪いまま今に至ります。
愛する人と結婚も出来ましたが、残念ながら離婚してしまいました。
特にもう恋愛や結婚もしたくない、元々子供も持ちたくない。(結婚の有無に関わらずです)
親しい友人も居るので、もう今更必要無い。
散々裏切りとか経験したので、もう一から築くなんて、そんな面倒な事御免です。
(そんな事するなら、1人がいい)
ある程度好きな所に住み、食べたいものも食べ、ある程度好きな仕事もし、恋愛、旅行、趣味にも時間を費やした。
やり尽くした感があるのです。
そう思うのに、また目覚めてしまう。
生きるのも死ぬのも辛いし、不安定な生活でお金も無いし、何にせよ負担。
家族も友人も居なければ、実行に移す事を考えるかもしれませんが、100%成功できる保証は無いし。
本当に辛いです。
生きて居る価値が無い。
必要とされている実感が無い。
自死というか、消去願望。
そんな感じです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
はじめまして
なかなかどなたにもお話しできない内容をお聞かせいただい事と思います。hasunohaの閲覧は以前からされていたのでしょうか。同じような思いを抱えた方もおられたでしょうが、まいまい様自身が自分の言葉で語るところに意味があったのでは?と感じる所です。
さて、現在の心境は
もう充分。楽しんだ。やり尽くした。悔いはないというものでしょうか。
それとも
本当はまだやりたいこともあった、けれどあきらめている。どうせかなわないと。めんどうなくらいならこのままでいい…という思いもあるのでしょうか。
一人が良い…けど…必要とされている実感が無い…と相反する思いもお抱えの様です。
私が本当はこうしたいんじゃ?本当はこうなりたいんじゃ?と押し付けるより、一度あらゆる条件、前提、障害をとっぱらって「できることならこういう風に生きたい・なりたい」というまいまい様の本当の願いを想像してみてください。
全てが叶うのならどうなりたかったのか、「でも・だけど・どうせ」といった言い訳で自分でも見えなくなってしまっているような気がします。
しかし現実は色々ありますよね。本当は色々思う所もあったけど、現実としては私はもうこれで十分という考えも確かにあるでしょう。
おっしゃる通り「生きるのも死ぬのも辛い」。生きたくても生きられない、死にたくても死ねない、人生はこうも思い通りにならないものかと嘆きたくもなります。
これから思い通りに自分を「消去」できないのならばどう生きるか。
仏教的に言うなら、ば自分の外のものを頼りに生きる道、つまり「~ために生きる」というものは「~」が失われてしまえば生きる意味も失われてしまいます。そうした道を外道と言います。
仏教は内道あるいは内観道です。外のものを頼りとせず自らの中に尊厳を見出し歩んで行く道です。それは独善的な生き方ではなく、仏法を拠り所とし、仏法に照らされる私を拠り所として歩む道です。
ここに縁をいただいたのであればこれから仏法に縁を求めるのもよいかもしれません。
あるいはボランティアや自死防止支援のNPOなどもどうでしょう。「~ために」という生き方ではなく、「~のためにすることが自分のためになる」というバランスのとれたものが見つかると希望もわいてくると思います。
まだ語りきれない思いもおありでしょうか?ここでよければいつでもまたどうぞ。