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資格試験の勉強をしています。

回答数回答 1
有り難し有り難し 7

資格勉強して何回か受けています。
もう今年こそは受からなければいけないと
思いました

勉強の仕方等
教えてください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

受からなくてもいいんだという選択も持つ

あなたの心や体調不良は、自分の決め事があるからです。
人間は、恐ろしいほどに自分ルールを作ります。
これをおちたらおわりだ、もうだめだ、と自分に縛られるのです。
まずは「落ちてもいいや、精一杯やろう」と口にしてみてください。
脳がモードチェンジするまで、言ってみてください。
あなたは、何としても受からなければいけない、自分の自由を奪われたようなある種、無我であると感じているかもしれません。
仏教の無我、無私は、そうではありません。
それも自分のマイルールですから、それも取り外すことで、重荷が取れて百パーセントの力を発揮できるのです。
「そうか、受からなくてもいいのか!死ぬわけではない」と思ってみましょう。
あなたの人生です。
試験と言うのは、インプット能力とアウトプット能力が試されているだけです。
あまり、脳をワタクシ情報を取り込まないようにしましょう。
無私、無我であれば、脳は、勉強すべきことだけをそのままストレートに覚えます。
「自分」「こうでなければいけない自分」に 力 が入りすぎていませんか?
武術も書も演奏も修行も力を抜くことにこそ神髄があるのです。
これはあなたの力を抜く為のお話でした。
力が抜ければ、見たもの、聞いたもの、学んだものはストレートに入ってきますよ。
落っこちたら、また来てください。
落っこちなくても、またお待ちしています。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます(^^)
そうです。その通りです。(;゜∀゜)

力を抜きます。
ある日の自分は
勉強をすることがとても楽しかったんです。

しばらく無我になりたい

試験問題して見たのです。
そうしたら気がつきました。
肩の力を抜いていたら見えていない部分
(まだまだある)が見えてこようとしています。

以前の悩みに答えて下さってありがとうございます。

耳鳴りがお陰様で良くなって まいりました。

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